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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

雨の朝に思うこと

僕は割合晴れの多い土地で育ったので、大学で県外に出たとき、実際雨の多さに驚いた。ロンドンや新潟に外から来た人が曇りが多すぎて鬱になるという話があるが、僕の青年期の性格形成に、天気が関係していることはあり得るかもしれない。

 

今朝は雨だった。昨晩、米国で同じ州に住んでいたというコメントを下さった方があり、ふとアメリカに住んで以来、雨が好きになったことを思い出す。僕だけかもしれないが、在米時よく鼻血が出た。東アジア(日中韓)人の子供に多い症状らしく、温帯で多湿な土地で育った人間には、米国東北部の紀行は少々渇き過ぎているという話である。粘膜が弱いと、鼻血を出すらしい。

 

僕は母親から「あんたは粘膜弱いから」と言われて育ったので、なるほど、と一人納得したものだ。さて、雨の話。

 

アメリカに住み始めてほどなくして、数カ月たった頃か、一年経た頃か、なぜか雨が降ると落ち着く自分に気付いた。理由は、おそらく郷愁だと思った。大学時代の悶々とした思いで眺めた空、それに重なる遠く離れた故郷のようなものを、しとしと降る雨が僕に思い出させたのだろう。

 

それまでは雨が嫌いだった。降ってもいいが濡れるのが嫌だった。服装に興味がないこともあり、靴も何足も持っていなかった。だから濡れると困るのだ。しかし、一人屋根裏の出窓から静かに降る雨を眺めるとき、無意識に、僕はそういう煩わしさへの郷愁を感じていた。

 

過去は消えていく。現代の歴史学的手法の厳密さから言うと、100年後、僕はいなかったことになるかもしれない。うたかたの消えては波打つ小雨の波紋のように、立体的に踊るしずくのように、僕らの歩みはただ流れていく。仏教的な感性でいえば、水面に誰かの顔を見つけたとしても、それはただ流れているという認識のような、透徹さ、または冷たさのようなものを感じなくもない。でも、僕はキリスト教徒なので、確かに、僕が、あなたが、誰かが、世界が、そこにあったことを、あり続けたことを思う。

 

昨晩シャワーを浴びなかったので、朝のシャワーの水音に外の小雨の足音を流しながら、そんなことを思った。そういえば、今朝みた夢は、出かけた研修合宿のようなところで、ぼっちになる夢だった。最近、テレビやラジオ、出版と大忙しの知人であるお坊さんが出てきた。対抗心を持つような相手ではないと思うが、何かも執着があるのかもしれない。祝着なことだ。

 

そんな朝。