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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

沖縄お試し移住30日目 出発

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5月9日 金曜日

 朝、少々早起きして、皆さんにご挨拶。皆、仕事をしているので、出る前に一言を。この人たちのおかげで、僕の滞在は随分と良いものになった。

 午前中に出ようと思っていたので、荷物を詰めて出発。なんだかんだやっていたら、結局、バスを二本遅らせることになった。ヘルパーの方に悪いことをしたが、バス亭まで車で送って頂いて、いざ出発。

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 空港まで約一時間と少し。途中、那覇の国際通りを通り、観光客としての自分をとりもろす。どうでもいいけど、割と本気で勉強したいのは、シアトリカルな日本的公共性。早起きのせいで眠かったが、空港に到着して、そこで弁当を買った。いつもA&Wを食べるが、今回はやめた。もう何度も食べたし。で、一時間ほど待って、いざ出発。

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 海自、陸自、空自の格納庫真横を通りながら、ふいにエンジンの振動を感じる。重量の向きが変わって、鉄鳥が地面を大きく蹴った。曇天と小雨の中、ぐんぐんと高度があがる。雲畑の下に翡翠と群青をちりばめた藍色の島影が遠い。雲上へと上がると南の日射しが焼けるように熱い。僕の一か月の温度そのままだと思う。

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  機内では何かのスープを飲んだ。いつのまにか寝ていて、気が付くと着陸態勢に入り、無事に到着。見慣れた港湾都市の光景である。ターミナル駅について、夕方のラッシュに一瞬とまどう程度には、僕は沖縄に慣れていたらしい。知人の教授と夕食の約束をしていたので、家では食べられないものとして、鳥貴族へ行った。バカな話をたくさんして楽しく食べた。帰り道、東浩紀さんの『セカイからもっと近くへ 現実と切り離された文学の諸問題』をやっと購入。立ち読みで流し読みしていたが、知人の勧めもあり、やっと買えた嬉しい。

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 地下鉄を乗り継いで新幹線の駅へ向かう。折りよく、新幹線到着。ドアがプシューッッと開いて、僕を飲み込む。夜に速度を上げて流れていく景色、見慣れた車内と座り心地が眠気を誘う。ふぅっ、疲れたなぁ。乗車前に買ったアイス珈琲を咥える。苦みと冷たい爽快感が、季節外れの夏の記憶を醒ましていく。僕の沖縄へ一か月お試し移住計画が、のどごしの中に消えていった。

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 以上、丸々一か月にわたる沖縄お試し移住だった。4月9日、水曜日に来たので、ちょうど一か月いたことになる。思えば、中核都市以上の規模のところに住んできたので、いわゆる町や村に住んだのは初めてだった。20代後半から、ぼんやりと田舎暮らしへの憧れがあったし、ここ最近は、とにかく何もないところで静かに暮らしたいと思っていた。そういう意味では、久米島町・読谷村・恩納村で過ごせたことは良かった。

 青い鳥症候群というのがあるのか知らないが「ここではないどこか」を求める気分は僕の中につねにある。「此処ではない何処か」等と書くと大仰なことだけれど、要するに飽きっぽいのだ。日本人の美徳として一所懸命という言葉があるそうだが、それは、既にある関係や職業の一貫性にこそ、一つの価値を見出す社会的環境であるということだろう。でもそれは、改善コストを払わないことであり、自分にとって都合のよい状況の維持ということだろうし、自分にも他者にも幻想でしかない価値観を見出して、互いの首吊りを補助するように、ひもを締めていく社会、そういう印象だ。

 僕としては、互いの首を吊れる既得権益の代償に、安寧を得ることに憧れてきた。公私混同などという概念が蒸発した自営業家庭で育った者として、私的空間と社会、親が適切に区分された生活への拭いがたい「普通」への憧れは、聖痕のごとく、僕の欲望の底流の一部を為している。

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 が、一方で、そもそも人間に一貫性を求めることが破綻しているようにも思うし、一所懸命などに至っては、農奴を騙すためのウソでしかないし、主従にみる人格的関係とかも、結局のところ配偶者との間に存在すれば良い程度のものであるから、僕が仮想的として見られているように感じてしまう社会とか日本人とか一般常識というのは、そもそも存在さえしていない。正直、一生懸命とかいってる人みると、気持ち悪くすらある。いや、別に、本人の自由だから好きにしてくれればいいんだけど(鼻ほじ)

 となれば、僕が縛られるべきは、個人の内的倫理(僕の場合はキリスト教徒であること)、続いて、法的規範、経済的自由になる。要約すれば、犯罪とならない限りにおいて、また金のやり取りの約束に縛られない限りにおいて、僕は自由であるということだ。もちろん、仏教における無我論、キリスト教における自由意思論争がある。そもそも自由とは何なのか、と問える。もっというと、不利益を被ることが気にならないなら、法律も金も宗教も大したことではない。が、言いたいことは、要するに、あれ?割と何もかも思い込みだよね?ってことだ。思い込みである以上は主体は「ぼく」なので、自覚的に対処のしようもあろうもん。

 前置きが長くなったが、言いたいのは、自由に暮らすのっていいよねっていう。沖縄で知り合った人々のいろんな歩き方は、聞いていて楽しかったし刺激的だった。自分の了見の狭さを思い知るのはいつでも新鮮で楽しいことだ。