以下、にっき。だが、何がどうだったか、あまり覚えていない。覚えていないということは大したことではなかったということである。
5月19日 月曜日
写真整理。ネット。これを無為という。↓上空200mより風に浮きながら撮影(・∀・)
5月20日 火曜日
昼、父親の自営業に関するETCカードのオンライン登録。自分でやれよ。とにかくこういう意味不明な用事が舞い込んでくる。この地球上に僕の安住の地はないんだな(白目)主よ、来りませ。
夜、地元の友人と会う。小中高の知人をfacebookなどで検索。びびる。
5月21日 水曜日
のどがいたい。週末に東京へ行くかもしれない。沖縄と広島でお世話になった方に御礼がてら、中古だが文庫本をアマゾンから送る。楽しい本だったと思う。夜、知人と話す。宗教と共同体とか、そういう話。
キリスト教のカトリックは、共同体の核であるサクラメントを客観的手続きと歴史的継続性に置いたので、共同体に参加する各人の物語は、その手続きと継続性という大きな物語に吸収され続けることになる。一方、プロテスタントにおいては、共同体の核は、各人の信仰の相互承認という内面化の共有、すなわち、その共同体内でしか通じない記号と象徴が大きな物語として共有されることになる。加えて、プロテスタント共同体の記号と象徴を支配するのは、どうしても、そこで神のことばを語る牧師となる。したがって、多くの場合、牧師個人の記号と象徴が、大きな物語になってしまう。
が、そもそも一個人の言語的蓄積は、大きな物語などになるはずもなく、プロテスタント共同体のことばの世界は、排他的に作用し、ある特定の世代と地域の偏向した共同体となる。その結果、その共同体は、その世代なり地域の衰退とともに消えていく。すなわち、キリスト教的・教会的な普遍性を失う。もっとも、キリスト教的・教会的普遍性という理念型など、そもそもあり得るのか、という問題もあるが。
で、これらのプロテスタント的問題を克服するためには、おそらく間主観的な正典論、すなわち聖書観が必要ではないのか、という話。
聖書が書かれた当時、それは現代的な意味での科学的な記録として完成したわけではない。旧約聖書は、古代イスラエルの人々の、神と自分たちの自己理解の記憶として留められた。それが文書化することで、記録となり歴史となった。新約聖書は、イエスの宗教運動を、その旧約聖書との連関として語ることで、キリスト教という創造、堕落、贖罪、終末、完成という大きな物語を描くことになった。
そして教会は、歴史的に、この聖書に自己理解≒記憶≒記録≒歴史化された、神と人々の出来事に自己をなぞる敬虔と実践において、信仰世界を作ってきたわけだ。従って、キリスト教は、非常に物語性の強い宗教であり、プロテスタントは、個々人の物語性を構造的に強調せざるを得ず、結果的に、物語に回収され得ない各人は疎外される。余談ではあるが、聖書が自己理解であるならば、現代聖書学の到達した聖書論は、預言者たち、イエス、パウロと明確に通底するかもしれない。
これらの人間疎外の問題の前提は、おそらくギリシャ的な静的自己理解である。本来ならば、神からみた自己と、自分が理解している「神からみた自己」には距離があるにも関わらず、それらを静的に概念化したことが、その理由かもしれない。
この人間理解に関しては、仏教の蓄積にキリスト教は聞くべきであろう。自我の解体、縁と空、今に徹底したこの宗教は、西洋を揺籃としてきたプロテスタントにとって最高の対話相手となろう。
実践的には、おそらく、不在において語る神の理解を回復することが必要である。米国の大量消費社会のような、語り続けてくれる神の姿の妥当性の問題である。これらの問題の果てに、おそらく、物語化できなくとも良いキリスト教の世界の地平が見えてくる。
そして、その世界は、おそらく三位一体論的な社会観として提示され得るだろう。そのとき、物語化することの目的が、各人が笑って話せるようになるために、ということであるならば、物語化しなくとも良い世界が、その目的を果たすのだ。つまり、どんな痛みも笑いも存在論的に共存し得る世界、現実がそこにある。
Vonda Shepard - Searchin' My Soul (Official ...
5月22日 木曜日
写真整理、読書。久しぶりにhuluでXファイルとアリーmyLOVEをみた。楽しい。