どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:人口減少、Nスぺ、地味な一日

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7月26日 土曜日

 気が付けば土曜日である。気持ちが急くようになると、早いものだ。8時前起床。昨晩思いの他、匿名はてなの記事に触発されて考えてしまった。その内容含め、午前中は友人司祭と少しく様々なことについて話す。来月末に、二泊三日で修道院に入るかもしれない。あと、毎週土曜日のバイトは今週もなかった...(´・ω・`) もっとも時給制ではなく月給制のバイトなので、別にないのは問題ないわけだが。

 で、昨晩、考えたこと。読んだ記事はこちら。共同体の崩壊と村の寺

 まず投稿を三行でまとめる。

①20代続いた限界集落の寺、過疎地域の未来と共同体。

②投稿者の父は終わらせるつもりで継承、投稿者、深く敬意を持つ。

③投稿者、年寄りのエゴとしての寺の再建としか思えなかった。

 僕は切捨狂徒なので、同じことを教会(僕の知る非常に限られた範囲だけ)について考えてきた。ただの個人的な印象だけれど、現状維持=老人たちの過去のノスタルジーの保存と再生産を求めるだけの小さな集団や組織は、本当に未来がないんじゃないだろうか。

 確かに多くの教会の人々が、口では、変わりたい、一生懸命やっていると言う。実際はどうなんだろうか。キツイ言い方をすれば変化し努力することなど当然のことだ。そもそも生活をかけて利益を追求する企業でさえ生き残るのに精一杯な現代では、いわゆるボランタリーな集団や組織は残りようがないのではないか。

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 2100年には人口六千万人にまで減るらしい。事の真偽はともかく膨れ上がった老齢人口が減り、それに伴って維持してきた社会インフラが破綻したり縮小していく。いわゆる消滅可能性のある自治体も冗談ではなくなるだろう。移民政策の如何によって、または技術革新による経済効果倍増によっては、これらの未来も違うかもしれない。が、いまのところ、勾配がきつくなりながら、坂道を下っているように思う。

 つまり、こういうマイナス事情を再分配していく社会の中で、いわゆる教会の人数を増やすみたいな話は、相当に難しいわけだ。しかも今まで出来なかったことが、これから出来るようになるとは思えない。

 個人的には、小さな教会であれ、宗教法人格をもつキリスト教の集団は、もっと公益性を高めるべきだと思う。なぜなら、宗教法人格を持つということは、いくらかの税制免除を受けているからだ。そして、その税制免除の目的は、公益性の高さ故なのだ。つまり、宗教法人とは、地域住民や市民全体への奉仕という観点から、その租税措置があるということだ。その意味で、多くのプロテスタント教会は、外へ開かれていないし、内輪のサークル・サロン化しているんだろう。だから人は来ないし、次世代を担っていこうという人々も離れいくままになるんだろう。

 どんな宗教でも別に信仰を曲げたり捨てる必要は微塵もないが、単純に、宗教法人格を持つ団体であるならば、上にあげたような点は最低限考えられて然るべきだ、という話。税制という意味では、伝統宗教であるか新興宗教、またはカルトであるかも問わない。法の下での平等である。だから、法人格を持たない任意団体は、まさにサークルなので、関係ない。

 あと、これは個人的にいつもやめればいいと思っていることだが、多くのプロテスタント教会で、免許証提示レベルの個人情報を示さなくてはならないというのは、どうにかならないだろうか。参加コスト高杉。役所かよ。つまり、それだけでも、気軽に寄れる神社やお寺の境内より遥かに近づき難い。とまあ、無駄に思うところを述べた。

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

 

 閑話休題。

 昼食は近所の学食へ同居人たちと。どうやらオープンキャンパスだったようで、保護者と高校生らしき子供たちで賑やかだった。午後、だらだらと部屋を片付けたり、読書。宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像』吉川弘文館を書評のために読んでいる。科研費論文集だが、非常に良い内容だと思う。

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 夜、半額寿司を食べながらNHKの戦後史証言として、湯川秀樹についての番組を見る。中性子の存在を予言するとか、いったいどんな頭になっているのだろうか。どうでもいいが、湯川博士の知己であるアインシュタインは、僕の先生の先生が子供の頃に住んでいた家の隣の部屋のおじいちゃんだった。昔、数学を教えてもらったんだとか。

 番組は、科学者の社会的責任という観点から、なぜ湯川博士ら物理学者たちが政治的発言を行ったのか、という問いかけを中心に組み立てていた。感想としては、要するに、物理学者が発言しないと駄目なくらい、戦前・戦中・戦後の人文学者たちが、その社会的責任を果たしていなかった、という話の裏返しとして、湯川博士たちがいた、ということになる。

日本人は何をめざしてきたのか <知の巨人たち> 第1回 「原子力 科学者は発言する ~湯川秀樹と武谷三男~」/NHK・戦後史証言プロジェクト – @動画

 自戒を込めつつ、自分のことを棚に上げていえば、いわゆる反原発の人や原発推進の人もそうだけれど、とにかく歴史を知らないことだ。例えば、反原発を語るならば、原発と福島という共時的な理解だけではなく、福島という土地を明治以降の近代史と冷戦構造という通時的=歴史的な線を見なくては、問題の多層構造を理解できないし、なぜ先の事故があったのか分からない。以下、蛇足ながら以前書いたメモを張っておく。

 電源三法交付金によって100億円を超える金が福島に落ちている。いわゆる原発利権である。そもそも福島という土地は、明治政府を確立した日本最期の内戦・戊辰戦争後に首都圏に最も近い大規模炭田として発見・開発されてきた。

 

 戦前は、世界でも最も困難な掘削技術を必要とする環境ながら、銅の産出もあり、日立などの企業を中心として鉱工業地域として栄えた。その結果、戦中は原爆開発が行われるほどのエネルギー政策の基幹地域だった。 

 

 しかし戦後、様相は一変する。1960年代、高度経済成長の到来とともに石炭から石油へ世界のエネルギーが転換するに連れて、炭鉱町は閉鎖を余儀なくされていく。そこで、石炭に群がっていた利権が再生への希望をかけたのが原発だった。1967年、福島第一原発が着工した。

 

 その後の福島と原発の利害関係と構造は、この2年半で急激に明らかにされたので、探せば良い本がいくらでもあるだろう。また正力松太郎という一人の男を中心に、日本における原発開発と民間テレビ局(日本テレビ)の導入が、米国の対ソ連・共産主義国への軍事政策の一環として行われたことも、福島と原発の問題を語るには前提せねばならない。

 以上のような最低限の背景を知らずに何が何でも反対とか言われると、正直、困ってしまうなぁというのが、この問題への煮え切らない僕の姿勢である。以上、地味な一日だったが、早めに就寝した。