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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:君に届け、ブログの目線、人文学

宗教・歴史 アニメ・漫画 猫=人類の支配者


きみにとどけ 君に届けOP 歌:タニザワトモフミ 歌詞付き - YouTube

8月25日 月曜日

 釣り人ブラフマンは、ラガーマンらしい体育会系である。釣れるときには理由があることなどを話してくれて、おもしろかった。あと、なぜか漫画『君に届け』についての話し合い勃発。なんか警察に届けられそうで怖い。中年男が少女マンガについて語る事案が発生。

 昼食は、豆腐とキャベツの炒め物、そーめん。釣り人たち、どうやら和歌山まで行くらしく、午後には出発。雨降りそうだが、良い時間を過ごしてきてくれ。食後、15分だけ横になった。

 ふと思ったが、僕がはてなブログの人気記事を読んでいて感じる違和感の理由がわかった。目線の問題だ。執拗に読者に語りかける文体が嫌なのだ。僕は基本的にネットの匿名性を好むので、わざわざ語りかけられる感じが居心地悪いのだろうと思う。そういう意味では、ただひたすらに好きなものについて書き殴る人たちの記事は楽しい。食べたものをひたすら観察し解説する人、読んだ本についての解釈を延々と書く人、猫の闘病に寄り添う人、毎朝の景色を写真で切り取る人、他の誰かのためではなくて、老若男女を問わず基本的には好き放題にやってる感じが伝わってきて、読んでいて楽しいんだなぁと思った。


【MAD】君に届け ED 『片思い』 & 『君に届け...』 FULL - YouTube

 で、同居人たちに煽られて「君に届け」を読んだ。在米時にアニメ化されて二期までやっていたが、アニメ一期第一話の良い最終回だったぶりは半端なかったことを思い出した。その後、夕食の買い物。財布にお金がないことを忘れていて、ぐるっと遠回りなどして店に戻ると、ちょうど同居人社会人が帰宅。割引き手巻き寿司などを買って一緒に食べた。

 食べていたら同居人博士が帰宅。明朝5時半に出発して、東南アジアでの調査に出かけるらしく、部屋を片付けて云々といっていた。で、食べながら、科学とは何か問題を、いわゆる創造論と進化論の問題に絡めて話し合った。

 個人的に思うのは、科学の方法区分が重要だと思っている。自然・社会・人文の三分野における「科学的手法」の意味内容の違いが重要だという話。科学とは何か、というのは科学哲学やらナンチャラの話なので、僕には分からない。ポパーも一冊読んだけど、難しかった。

 ただ素人なりに思うことは、科学というのは「再現可能性」を土台にしているわけだ。で、自然科学の場合は、その対象が物理法則なり化学現象なので、それなりに実証できる。一方、いわゆる人文学も、文献を基礎にして解釈の範囲を確定していくということをやるので、そこにも「再現可能性」がある。そういう意味で、人文学も人文「科学」である。


とある科学の超電磁砲S OP - YouTube

 もっとも、いわゆる自然・社会科学が、事象のより適切な「説明」をめざし、その結論を常に更新しようとすることに対して、人文学は、説明のさらにその先である「理解」を求めるものだ。説明は客観性の強いものであり、更新も可能である。しかし、理解とは主体の実存の痕跡として初めて「理解」の意味内容を為すので、相当程度に主観の内奥や基層に密着したものとして結晶化する。つまり、人文科学が目指す「理解」は、数多の研究者なり学び手の実存を結晶化させて、それを足場にして、研究対象の内奥へ迫っていく鍾乳洞を作るような作業、または穴を穿つ水の一滴となるような作業なのだ。

 だから、両者とも方法論的に再現可能性を担保しているが、ざっくり言うと、自然・社会科学と人文学は、基本的に「知の体系」が違う。端的にいうとサイエンスとラーニングの違いである。例えば、人間の体組成は水が何%という知識と、私の妻は何々をすると激しく怒る、という知識は同様に知識であるが、その説明と理解の目的や適用が違うのだ。大雑把にいえば、理系と文系は、こういう形で分かれているといえる、まじで大雑把に。

 余談ではあるが、論理実証主義と分析哲学を科学的手法の基礎として導入したことが、人文学の「科学性」に疑義申立てになったのだと思う。しかし「知的体系」というのは、論理実証主義以外にも存在し得る。たとえば、いわゆる学問的事実と信仰的真理の関係もこれに類する。たとえば、学問的事実というのは、間主観的に確認できる一定の手続き範囲における事実という可謬的解釈の幅を扱うが、信仰的真理は、宗教的な知の手続きを蓄積させたことで見出された、より無謬「的」事実である。

 で、これらの区分を踏まえないまま、創造論と進化論を問うというのは、まあ無茶苦茶になる、みたいな話だということを話した。身もフタもない話をすれば、米国は自然科学と社会科学では最強の国家であるが、いわゆる人文学は弱い(と言われている)。理由は非常に単純で、各文献の英語翻訳が読めるからだ。でも、人文学というのは、とりあえず、まず原語でテキストにあたって、それを自分にインストールして、のたうち回り煩悶し、結果生き残れたら自分のものになるみたいな話なので、そういう意味で、翻訳しか読まないというのは言語に肉迫できないかもしれない。


【TVアニメ】 まおゆう魔王勇者 / Maoyuu Maou Yuusha OP 「向かい風 ...

 たとえば「まおゆう」とかで、魔王が歴代魔王の叡智と魔力を継承するために、部屋にこもって、一晩のたうち回るという場面があるが、人文学ってのは、そういうものじゃないかと、同居人院生が言っていた。そうだと思う。

 とまあ、そんな話をしながら、同居人博士と集団的自衛権やら「この国のかたち」などについて話し、日本という国(言語・文化・人)が残らなくてはならない理由があるかないか、みたいな、どうでも良い楽しい時間を過ごした。で、ふと、これを書きながら「痴的体型」という誤変換が浮かんだ。非モテの妄想はたくましいのである。夜一時に寝た。