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にっき:Homo Symbolicus、疎水沿い、沖縄と月

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10月8日 水曜日

 朝、わりとゆっくり寝て起きる。昨晩つくった麻婆茄子丼を食す。昼、食べにいくのも面倒なので、同居人院生と朝と同じものを食べた。三回目の麻婆茄子である...。食べながら、ルターとエラスムスの問題から発展して、5.15事件の犬養毅の「話せばわかる」ということについて話す。話せばわか...パーーンッッ...ドサッ、というのが、この世界の実情であるが、しかし、フマニスタであることは求めても良いのではないかと思う。

 昨晩、野良犬にかまれるような形で、おまえは何々なのだから、もっとこうしろ!と某宗教の狂信者に絡まれたのだが、あの手の人々というのは、結局、教育や環境の問題もあろうが、本人の姿勢の問題だと思う。端的に翻訳すれば、何々だと名乗る以上、俺を満足させろ、という無茶苦茶な要求である。

 つまり、自らの思想・信条こそがスタティックに真理であり最上であると信じる独善的姿勢がそこにある。こういうものは、教育や環境だけでは変えられない人間の自我の問題であろう。

  その意味で、ルターとエラスムスの論争は、もっとも程度の低い卑近な言い方をすれば「やる気があるか、ないか」問題に収斂する。自分の信じている様々なこと(社会、思想、国家、家族、神、etc...)以外は、存在することも認められないというのは、結局、話しても分からない、ということだ。文脈を無視して乱雑に三回転半ひねりを加えれば、ルターの人間観は、話しても分からない、ということになろうし、エラスムスは、話せばわかる奴もあろう、という話になる。

 僕としては両者の緊張を前提に生きるしかないと思う。それは、人間が人間であることを求めるということであるし、ルターとエラスムスだけではなく、ギリシア・ローマの遺産、または中世キリスト教世界の叡智を受け継ぐというのは、そういうことなのだと思う。

宗教改革の精神―ルターとエラスムスの思想対決 (講談社学術文庫)

宗教改革の精神―ルターとエラスムスの思想対決 (講談社学術文庫)

 

  要するに、人間の認知の可謬性とか科学的真理の更新可能性、または単純に世界が動的であることを認めよう、というのを僕は言っているのだが、こういう話は、ある人が、高度なメタ機能を持っているかどうか、シンボル操作が可能であるか否かに依拠してしまうし、いわゆる統計なり分布が示すのは、それらを解する能力は努力による改善可能なものではなくて構造であるとも言える。つまり、Homo Symbolicusの機能的高低差は如何ともしがたい。なれば、何を言っても仕方ない、話しても分からない、という結論は十分にあり得るが、それでも、僕は話せばわかる奴もいるかもしれない、と少しは思いたいのである。

 とまあ、もっとも僕も今まで似たような形で発語し人々を断罪してきたので、人格の卑小さと暴力性という意味では、昨晩の野良犬と僕には差はない。たぶん、どちらもゴミ捨て場で唸っているようなものだ。

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 午後、ブログ更新など。夕方、疏水沿いを再び歩く。良い気分転換になる。途中、古本屋にて三冊本を買う。現象学について、もう少し精度を上げたいと思い、木田元『現象学入門』を買った。あと森有正、それにキリスト教図像学入門も。500円玉だけ持って歩きに出て良かった。

 帰宅したら、沖縄料理屋でバイトするパンダ氏が夕食を作ってくれていた。ちゃんぷるーを三品。美味しい。が、パンダ氏の勤め先は、年内に店終いらしい。十軒出して一軒しか残らないという飲食業界、大変なんだなと思う。

 この日記を書きながら、久米島で見た赤い月を思い出した。疎水沿いを歩きながら、今日は本当に月がきれいだなと相手もいないのに、そんなことを思ったが、月蝕の日だったようだ。少しく皆で、外に出て赤暗い月を眺める。パンダ氏いわく「あぁ、今、月と俺と太陽が一直線に並んでいる」とのこと。あんた、すげえよ。

 夜、博士と映画でも見ようかと思ったが、明日、パンダ氏を京都駅に早朝に送るということで、早く寝た。が、眠れず、アニメを二本みた。甘城ブリリアントパーク、旦那が何を言っているのか分からない件、期待できる (`・ω・´)

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