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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:雨音、古本を買う、翻訳

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11月25日 火曜日

 昨晩、たぶん二時ごろに調べものをしながらそのまま寝落ち。8時前に起床。割に激しい雨音で目が覚めた。雨の中、ゴミを出しにいくのが嫌だなと思っていたら博士が起きてきて行ってくれた。有難い。午前中、どうにも値足りず、だらっと過ごす。友人より質問を受けたので、今晩、その質問に対して概括的に答えるために復習読書。久しぶりにそのあたりの話を考える。

 昼食は秋刀魚の蒲焼丼。みりんと醤油で玉ねぎを煮込み、卵でとじた。山椒をかけるとまじうまい。銀魂とデュラララを見る。楽しい。食後、ブログ巡回。午後、雨がやんだので色んな支払いのために郵便局へ。お金はできてもすぐに消えていく。10年くらい前だか、生きること=金がかかるってことが、とにかく嫌で面倒で早く死にたかった。が、結局まだ生きている。何なのか。

 郵便局へいくついでだったが、外出したので、そのまま学校へいく院生氏について歩く。期せずして訪れたカロリー消費の機会である。一時間とかからない用事らしいので、そのまま古本屋に入り、色々と眺めていたら、気が付くと漱石さんが二人いなくなっていた。が、悪くない。ちなみに、買ったのは以下の本。

ギリシア・ローマ名言集 (岩波文庫)

ギリシア・ローマ名言集 (岩波文庫)

 

  院生氏と落ちあい、しばらく本を眺めて帰宅。ちょっと出るだけのつもりが結局二時間ほどの外出になってしまった。帰宅後、東京より学生氏が戻っており夕食をつくってくれた。

 僕が来る前の住人であり十年来の友人である博士課程氏が主宰する読書会があるとのことで、人が来る前にシャワった。その後、9時に質問にくるという西洋古典君のためにメモを作成。

 9時過ぎ、彼に本を渡し、ざっくり僕の専門からの主題についての概略を申し述べる。読書会に来ていた人達がそのまま聞いていたが、肝心の西洋古典君の反応がいまいちな印象でなんとも。

 ついでに新しい同居人学生氏も夕食のために戻ってきて、そのまま聞いて、色んな話はしたが、翻訳とは何かみたいな話になった。

ルターとドイツ精神史―そのヤーヌスの顔をめぐって (1977年) (岩波新書)

ルターとドイツ精神史―そのヤーヌスの顔をめぐって (1977年) (岩波新書)

 

 翻訳というのは難しくて、原典を翻訳において復元することは、原理的には不可能だ。かなりの確率で情報の伝達は可能であろうが、原典の持つ語彙範囲やその言語で共通される意味世界を、別の言語に置き換えることは、そもそも理解と解釈が必要なのだ。その意味で、翻訳とは、原典の理解と解釈である。

 僕と博士課程氏は、何かしらの解釈なり議論なりをする場合は、より正確な翻訳と原典の範囲を定めなくては話ができないと思った。が、新しい同居人学生氏は、翻訳で理解されることの価値が排他的に原典より低いものとされることに疑義を呈した。彼の加勢として院生氏も加わって、翻訳について夜遅くまで話すことになった。

 就寝前、原典よりも翻訳が良いという感覚を持つ人々がいることは知ってはいたが、実際に遭遇してみると本当に驚くものだなと思う。あるテクストを読んだ結果としての意味世界は、おそらく等価であるとしか言いようがない。それは味覚のようなものなので、優劣を論じ得ない。

「黙示録」を読みとく (講談社現代新書)

「黙示録」を読みとく (講談社現代新書)

 

 しかし、やはりより正確な翻訳をつくる努力もどんな文献であれ、原典を確定し、不明なところはわからないと言うためにも、その手のあらゆる作業が必要だと思う。確かに、どんな人でも、あるテキストを読むときに、自らの素朴な信念なり認識の仕方をそこに反映する。しかし、自分が得た印象とそのテキストの持つ可能的な解釈の幅は、また別問題である。

 この問題は、憲法しかり宗教の経典しかり、またはあらゆる出版物しかりである。読み方の慣例なり解釈の幅ということを、人類は、または人々は、個々人の限界を認めるからこそ、僅かな生涯の中で、研究し積み重ねてきたのだ。それらを無視して、独善的に自らの確信をみるというのは、僕からすればほとんどテロ行為に等しい。

 もちろん読み手の優先性ということも分かる。リクール、ガダマーしかりである。が、翻訳というのは、何をどうやっても情報としての意味を伝達することが目的なわけで、その情報を意図的に削るなり改変するというのは、やはり翻訳とは呼べないように思う。

中国とキリスト教―最初の対決 (叢書・ウニベルシタス)

中国とキリスト教―最初の対決 (叢書・ウニベルシタス)

 

 このあたりは、先日、取材先で聞いた翻訳理論の専門家に論じて頂きたい話ではある。とまあ、なんというか、久しぶりに、自分という輪郭が荒々しく出てくる場面に遭遇し、十も年下の学生さん相手にムキになってしまった残念なおっさんの話。まあ、でも、興味の度合いではあろうが、とにかく、もっと学ばなくてはと思った。

 昔、ある人に、無知は罪だと言われたことがある。啓蒙主義というのは、やはり限界があるわけだけれど、しかし、楽しめる努力を続けるということの結果として、その罪を回避することは重要なのかもしれない。そんなことを思いながら、久しぶりの激情に揺れて眠った。