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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

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にっき:映画エクソダス、アルファベット文明、古代を思う

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2月26日 木曜日 雨

 朝、ゆっくりと起き身支度。11時過ぎから映画館へと向かい、西洋古典君と課程博士氏の三人で「エクソダス 神と王」を見てきた。聖書の記述と違うのは当たり前なので(そもそも記述通りの映像作品など実現不可能であるし、そんなもの作っても意味ないし、おもしろくもない)とにかく凄い映像を作るリドリー・スコット監督の解釈を楽しんできた。

 二時間半の長丁場であるが、上映時間を感じさせない作りと構成であり、映像体験としては非常に圧巻である。ぜひ劇場でご覧頂きたい。帰宅後、出エジプト記を読んでみた。なるほど、違いが見えておもしろい。感想は以下。

①聖書の記述と違うという批判は批判でない。

 こう言う人は映画を見ず聖書を読んでいればいい。そもそも文学作品によって生起する読者個々人の豊饒な内的世界の多様性を、どのような形であれ映像化することは、ほぼ不可能である。また聖書と違うという批判する場合、そもそも、その批判者が読んでいる聖書が翻訳なのか原典なのか、原典であるならば、どの写本なのかを明確にした上でなければ、話にならない。聖書にはこう書いてあるから、こうであるという論理構築は、せいぜい20世紀後半までであり、21世紀の現在において「聖書を読む」という行為は、そもそも「聖書」や「読む」という行為が何を意味するのか、ということが問われている。それを定義もせずに、自らの脳内の「聖書≒ぼくのいんしょう」に基づく批判は、人間の批判的思索でも評価でもなくて、野良犬の吠え声と同じであり無意味。

②制作者の意図、目的をまず考える。

 そもそも映画製作者は教会でもなければ宣教師でもないので、信者の信仰を鼓舞するために制作された映画でないことを明確にして観たほうがいい。主張なり訴えの狙っていることを精確に読み取ることが出来てこそ、正確な問題設定ができる。この一年ほどだろうか、そういう態度を少しずつ理解できるようになってきた。映画に詳しいタイの友人の感想を聞いてみたいと思った。

③聖書と違う場面や箇所に製作者の解釈や意図を見つけることを楽しむ。

 たとえば本作品において、モーセは妻子を置いて出エジプトを成し遂げ、家族の待つ家へと帰っていく。おそらくだけれど、最後に弟のトニー・スコットへ捧ぐと出した場面に意味がある。あと、たぶんだけど、出エジプトの最高潮ともいえる海割の場面をみて、あぁ、これを描きたかったんだなと思った。他には、モーセと法の関係なども興味深い。ちょっと左翼的な解釈かもしれないけれど。


 午後4時前、帰宅。改めて旧約聖書の当該箇所を読むなど、ゆっくりと過ごして一日終了。昨日、取材で学者たちから聞いたことを思い出す。アルファベット文明の意義だ。アッカド語やヒエログリフなど古代の高度な文明の文字技術が、サイン数の多さや記録の仕方の複雑さのゆえに、その担い手として、神官や書記官などの文字の特権階級を形成したが、ヘブライ語文字アレフベイトは、たった22文字だけ。その起源にあたる原シナイ文字の単純素朴さから奴隷たちの文字として始まったともいわれている。つまり、この単純素朴なアレフベイトの文字の在り方そのものが、言葉と本が市井の普通の人々のものであることを意味する、というお話。

 貴族に会ったことはないが、僕のような庶民としては、ことばと本という人間が人間であるための活動が、誰に対しても開かれていることの意味こそが、アルファベット文明の中心的色合いであるというのは興味深いなと思った。総じて古代に思いを馳せる一日だった。