どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:一年経過、慰めよ、六月

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5月31日 日曜日 曇り

 朝、起き抜けに京都に来て一年たったと気づく。少々遅れるが、早く起きたので早朝礼拝へ久しぶりに出席。以前、ここに出たのは去年の11月くらいだったろうか。

 今日、毎朝の習慣として読んだ聖書にはこうあった。

ホセア書8-9節

 エフライムは言った、「まことにわたしは富める者となった。わたしは自分ために財宝を得た」と。しかし彼のすべての富もその犯した罪をつぐなうことはできない。わたしはエジプトの国を出たときから、あなたの神、主である。

  一年前、金も未来も何もないまま上洛した。予感めいたことも何も持たず、とりあえず年下の友人が行うシェアハウスに安いという理由だけで転がり込んだ。気がついたら四捨五入40歳で大学院生(白目)という、どうしようもない身分を得ていた。無職であるよりはマシだろう、きっと。

 2008年八月、十年近く馴染んだ関西を出て海外旅行をしたこともないのに留学してみた。いま覚えば、単なる無謀だった。留学の果てに得た気持ちを古代の詩人のことばに代えていえば『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした、私はそれであなたのおきてを学びました』となる。

 日本を出て、帰国後に住んだ兵庫を出て、沖縄を出て何もなくなって、都に流れついた。総じて振り返ってみると、大病・事故を患うでもなく無事に過ごせたので、神の憐みなんだなと思う。

 早朝礼拝で牧師が珍しく原語で語った『慰めよ、慰めよ』のことばが響く。誰を、何を、どのように慰めれば良いのか。慰めるとは、具体的にいかなることか。パスカルが言うように、人の心に神のかたちをした穴があるならば、その埋められない実存の輪郭、深淵の淵を埋めるものは何なのか。慰めることにおいて、慰めを得るという逆説定型句のような未来を願えばよいのだろうか。

 友人が電波で引いた導線がふと思い出される。デュナミスからエネルゲイアへ。エンテレケイアは見果てぬ夢なのか否か。生成消滅しながらも終局へ向かう歴史の流れに、ぽつんと漂う互いを慰めれば良いのだろうか。夜、友人牧師二人とスカイプで話した。そこに編集者の友人も加わり、遅くまで話した。季節は青水無月。