どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

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にっき:雑炊、勉強、リアリティ

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10月24日 土曜日 快晴

 朝、冷凍していたごはんで雑炊を作った。こういうものが旨くなる季節である。湯気を見ると、なんか冬感出てる。今日はモンゴル帝国下の宗教についての研究発表やら古代思想コロキウムなどがあり、出席したかったのだが、既に予定が決まっていたので、僕は自分が担当する勉強会へ行った。

 途中、烏丸通りで珈琲を買った。京都市内の市街地で原付を止めるのは駐禁が怖くて勇気がいる。もっとも珈琲を買う数分くらいは大丈夫な気がするが、そう思って何千円も取られたら悲惨である。

 無事に珈琲を買って会場到着。ジャンケンで発表者を決めて、僕が二番目となった。夕方、先の某メディアに呼び出された件について話したいということで、もう一名加えて少し話した。

 夕食は、昨晩アニメみた友人と一緒になか卯にて。文学や虚構のリアリティとは何か、という話をした。僕の意見としては、五感の数とか現象の規模の程度問題ではないかと思う。たとえば、普段は会うことのない祖父のリアリティというのは、僕にとって以前祖父が作っていた桃の味と結びついていたりする。つまり、味覚を含む経験としてリアリティを持っている。

 では、それが宗教的実在の場合はどうなるのか。僕はキリスト教徒なので、いわゆる三一の神を信じているわけだが、そのリアリティはどうか。それは、やはり僕の生涯なり実存なりの全体経験として、祖父と同じ様にリアリティを持っている。しかも、一応、全知全能の神なわけだから、ある意味では祖父以上、僕が考える僕という自己理解以上に、僕にとって神はリアリティがある。

 ならば、僕が好きなアニメのキャラたちのリアリティはどうか。誰でも良いのだが、たとえばアニメのキャラについては、僕は味覚や触覚という五感的要素を持つ記憶が足りないと思う。そういう意味では、程度問題として、リアリティは、神から人間、人間から二次元へと濃淡を描いている。要するに程度問題だ。

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 さらに言えば、その実在の有無は、おそらく、ほとんど問題にならない。もちろん実際に祖父は存在している。しかし誰の祖父母や両親でも、いつかは亡くなるわけだが、彼らに関する僕のリアリティは、僕が彼らを思い出すときに発動される。または、彼らの名前を呼ぶときに、彼らはその場に在るものとなる。つまり、誰かが亡くなった後であっても、そのリアリティは厳然と残っている。その記憶の根拠としての事実、いま存在しているか否かという問題は、リアリティの実感を左右しない。むしろ、存在しないことがリアリティを強化する場合もあろう。

 そういう意味で、たとえば、古代イスラエルの神は目に見えないけれど、人がその神に呼びかけるときに、神は名を呼ばれることでその場に現臨する。ヘブライ語の"קרא"カーラーが「祈る」と訳される理由である。

 そうなると、実際のところ、神、人間、二次元のリアリティというのは物理的にそれが存在していること依拠していないのではないか。実際問題は、人と人の間、すなわち人間の記憶を場にした言語という象徴機能の中にあるとも言えよう。

 あとは、この話の前提として、自然科学的な世界観を建前としてスタティックに皆持っているけれど、実際は、呪術的なふるまいで生きているみたいな話。つまり、理念と実態が違うわけである。そして、その理念と実態をつなぎ包摂する機能を持つのが、昔は宗教という大きな物語だったし、いまは文学やらアニメやら何やらである、という話。

 夜9時、アニメについて色々と考えて帰宅。風が強く外が騒がしい。明日も晴れるらしいが、そろそろ雨に降ってもらっても良いのではないか。ずっと晴れているのも、何か滅入る気がするのである。

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