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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:年越おでん会、与太話、鯉幟

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12月31日 木曜日 晴れのち雨

 疲れていたのかよく寝た。昨晩、誰もいないと思っていたシェアハウスだが、医学部氏と博士がいた。博士は今晩論文を書いて明朝帰省し、そのまま調査で東南アジアのどこかにいくらしい。相変わらず忙しいな。医学部氏は試験を二週間後に控えているとかで勉強しているんだとか。聖人ぱねぇ。

 午後、クロネコが届いた。いろいろと考えたが、夕方より一人おでん会を決行するために準備開始。が、予想に反して参加者が3名あった。夕食を食べに帰ってきた博士、西洋古典くん、世界一周旅行にいった考える葦氏である。

考える葦 | 短期間の世界一周

 年明け後は、まだ見ていなかったビートたけしの年末オカルト検証特番をみた。始まった当初からこの番組が好きである。しかしながらネタも尽きてきたのだろうが、まだ続いている。人の想像力の続く限り、この手の話は尽きないということだろうか。

 いわゆるUFO系の話というのは世相の鏡でもある。環境問題への警鐘やら戦争危機・平和など、世人が潜在的に不安に思うことが宇宙人を介して発信されるのだ。ひとつ笑ってしまったのは、聖母マリア火星人説である。もはや何でもありだな。

 聖母マリアつながりで思い出したが、今年聞いた中で、興味深い話があった。旧約聖書の言語はヘブライ語・一部アラム語であり、古代シリア語もアラム語圏内にある。そして、旧約聖書における息・風・聖霊を意味する語は女性名詞ルアッハであり、それは同じアラム語圏におけるシリア語ルーハーである。だからというわけでもないが、アラム語圏キリスト教においては、母という象徴で聖霊を理解するというのが割によくあったらしい。しかし、キリスト教がアラム語圏からギリシャ語圏へ、そしてラテン語圏を含めた世界宗教へと脱皮していく過程において、聖霊の女性性は蒸発し、父なる神、神の長男たるイエス・キリスト、そしてキリストの霊として「神」は男性化された、という話。

聖母マリア崇拝の謎---「見えない宗教」の人類学 (河出ブックス)

聖母マリア崇拝の謎---「見えない宗教」の人類学 (河出ブックス)

 

  このあたり、山形孝夫『聖母マリア崇拝の謎』と併せて考えると楽しい。つまり、古代シリア政権下・メソポタミア宗教下でユダヤ教内の少数派セクトとして弾圧されていたキリスト教は、ローマ帝国の伸長と世界支配への道程において共同体内部のフェミニティの置き場を、聖霊から教会へ、教会から聖母マリアへと移したのだ。すなわち、元来の宗教言語に担保されていた女性性が「神」から蒸発し、ナザレの処女マリアに憑依した。

 アラム語圏からギリシャ・ラテン語世界へのキリスト教の飛躍、ローマ帝国内で男性的?ヒエラルキーとしての教会の確立と共に、元々は14、5歳であったろう田舎娘でありイエスの母であったマリアが、キリストの母、神の母、教会の花嫁となっていき、現在ではキリストにも似た「無原罪」と「不死性」を得て「全人類の聖母」となった。従って、マリアの神化と聖霊の女性性の蒸発は反比例しているように見えなくもない。

 不敬虔も甚だしい言い方をすれば、男性ヒエラルキー(独身・修道制)としての西方ラテン教会の共同体から言語レベルで女性性が失われた結果、その男性共同体は究極のマザコン・処女厨となり聖母を求めたことになる。もちろん、素人が専門家の本を読んだ感想にもならぬ与太話である。申し訳ない。

 もう一つ、おもしろい話を付け加えるならば、西洋古典君が教えてくれた話がある。マルコ福音書がギリシャ悲劇として書かれている説だ。マルコ福音書の構成は、ギリシャ語文学としてギリシャ悲劇の型を踏襲している。ゆえに、いわゆるlong-ending(16章9節以下のこと、文献学上、後代の付加と考えられている)なしの価値が認められるし、マルコの文学性を解せずに復活を記した他の福音書(マタイ・ルカ・ヨハネ)は、キリスト伝の文学的価値を毀損している(大意)という話である。これはかなり興味深い。文学研究の醍醐味といってよい。もちろん僕の感想などは粗大ゴミといってよい。

悲劇と福音―原始キリスト教における悲劇的なるもの (Century Books―人と思想)

悲劇と福音―原始キリスト教における悲劇的なるもの (Century Books―人と思想)

 

  年末に見たい番組といえば、たけしの超常現象SPと「ゆく年くる年」くらいだったが「ゆく年くる年」は小中学生くらいの多感な時期に、がんばって遅くまで起きて聴いた除夜の鐘の音、子供の自覚という郷愁と結びついている。ノスタルジーは、すでに存在しないものへの憧れであり、従って、夢幻のごときものである。こういうことを考えると、ふと在米時に英語を読むのが嫌で、ベットの読書灯のオレンジ色の中で日本語に飢えて司馬遼太郎を読みあさったことを思い出した。場所も人も事実として存在するのだが、それらは記憶として僕に引っかかり鯉幟のように色合いを為している。

 寒く冷たい雨の降る大晦日の夜に思わぬ知己の賛同を得たおでん会は温かいものとなった。たぶん、おでんの温度だけではなかったのだろう。あとネットで流れてきた、この画像が中々いい。笑ってしまった。いつも思うが、どんな政治的主張にもクスリとさせる一味のユーモアがあれば、伝わり方・受け取られ方が随分と違うのではないか。

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