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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:エビフライうまい、自己、寒い

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1月13日 水曜日 曇り

 朝はなし。昼に近所のカレー屋2階にできた定食屋で食べた。なんと院生氏のおごり。いきなりなんだと訝ると、どうやら今度出る論集の翻訳部分ができたので提出前に日本語の校正を頼みたいとのこと。16頁もあるから3回も飯をおごってくれるらしい。まあ、飯はいいが、勉強になるからよい。初めて入った店だったが、エビフライの身が詰っていて嬉しかった。エビフライ最高。揚げ物くったし歩いて登校。

 午後、授業。本日はキルケゴール。彼のものは、とにかく読んでどう思うかみたいのが重要な気がするわけだが、先生も同じようなことを言っていた。やはり皆そう思うんだな。どうでも良いが、キルケゴールには表記が二つあり、それがたぶん国内のキルケゴール解釈を分断しているとか云々。以前、キルケゴーリアンのボスに会ったことがあるが、あの人はどちらの長だったのだろう。

 キルケゴールでおもしろいなと思うのは、キリスト教圏内で近代的自我の流動性について言及していたことにある。つか、近代であるが故に、自己というのは不動ではないというわけだ。もちろん仏教圏では早い段階で自己という問題が苦の根本であったと発見されているわけだが、そういう意味では、仏教は窮屈でなくて良いかもしれない。無論、主語の大きな印象的ぼやきである。日本語としては中々わかりにくいのだが、以下に彼のことばを引用しておく。

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)

 

『死に至る病』(岩波文庫、1849)

 「人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものになることが含まれている、──

 それで自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然性との、綜合である。綜合とは二つのものの関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。」

 

「関係がそれ自身に対して関係するということになれば、この関係こそ積極的な第三者なのであり、そしてこれが自己なのである。」

 

教授の解説も引用しておくと、こうなる。

「精神」「自己」としての「人間」:「関係が自己自身に関係する関係」という仕方での自己関係、つまり自己参照性によって特徴付けられている。自己関係は、反省や参照(あるいは言及性)一般がそうであるように、自己自身に関係することによって、最初の自己関係を変化させ、そこに生成のプロセスを生起させる。これは変化における自己同一性あるいは自己同一性の変化、さらには自己言及のパラドックスなど、人間存在に特有の問題を派生させる。

  端的にいえば、人間の自己意識というのは、自分を自分として認識できるところにある。それは、自分が自分を他者として理解することである。さらに自分が自分=他者を考察している関係も含めて自分である。しかし、これは、さらにそれを考察している自分(以下略

 という無限遡及になるわけだが、それはともかく、そうやって人は自己になるために自己生成し続けるわけである。おもしろい話だと思う。

 歩いて帰宅。色々と浮かんでは消えていくよしなしごとが、沿道の枯木の隙間を吹き抜けていった。ネットの海の枯れ珊瑚、そういうときはただ季節が移るのを待つしかないのだろうか。

 夕方、農学部君がいたので少し話した。今年の4月から訓練に入り、9月からはアフリカの大地へ。すげえなぁ。夕食は玉ねぎスープと野菜炒めの残りもの。今晩は冷えるらしい。