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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:一段落、博士帰国、このすば

宗教・歴史 アニメ・漫画

https://miepvonsydow.files.wordpress.com/2014/01/muensterundersiege1534.jpg

1月21日 木曜日 晴れ

 朝ゆっくりと。昨日の提出で後期試験も一段落。あとは補講が三種類、レポートを一つである。余裕があるので助かる。

 今日はゆっくりしようかと思っていたら博士が戻ってきた。どうやら、たった今、東南アジアから帰国したらしい。今回の調査も忙しかったんだとか。タイミングも良かったので、そのまま昼を食べにいった。ロースかつ定食850円、なかなかの満足度である。昨晩、皆で食事した話から来年以降の話になり、そして学振の話題となった。たしかに出願は5月なので考えなくてはならない。まあDC1が通れば続けてもいいかもなぁ。通るかどうかで継続の可否を決める人も結構な数いるらしい。ただ人文系というのは言語学などと一括されているので、中々難しいように思うが果たして。まあ駄目元で出すのは悪くない案だ。定食をたべた店は二回目の来訪だったが繁盛したらいいな。

 帰宅後、友人司祭が送ってきたキリスト教と音楽の話でおもしろいことが判明した。二日ほど前に少し書いたが、1533年のミュンスターの破滅である。長くなるが以下に置く。

 宗教改革をどのように理解するか、というのは様々であるが、現在では中世末期として理解するのが一般的である。言うまでもなく宗教改革とは1517年以降のルター派、改革派、英国国教会を中心にした欧州全域を巻き込んだあの熱情と知性の渦である。

 宗教改革を考えるには、急進派も考えねばならないが、その代表格として再洗礼派が挙げられる。様々なものがあるが、それは全部割愛する。始まりはツヴィングリの薫陶を受け、師に反旗を翻したコンラート・グレーベルとフェリクス・マンツらである。彼らが再洗礼派の祖となった。

 とくに幼児洗礼と教会論について、すなわち制度化された教会と国家の未分化問題について彼らはツヴィングリと対決し決別した。ルターもツヴィングリも教会と国家は併存し支え合うべきと考えていたが、グレーベルもマンツも、教会は自発的共同体であり、国家は介入できないと考えた。

 1527年、マンツは千年以上前に制定された再洗礼を禁じるテオドシウス法とユティニアヌス法の違反ということで、極刑に処され、プロテスタント最初の殉教者となった。容疑は、教会法(異端)と神聖ローマ帝国の国法違反(治安妨害)である。翌年、グレーベルは病死する。同年、スイスのカトリック州内で再洗礼派への死刑執行が始まり、続く1528年、カール5世はドナトゥス派に対して制定された古代法に基づき、死刑を容認し、1529年、シュパイエル帝国議会では再洗礼派については死刑執行への賛成決議がなされた。溺死、火刑、四つ裂きなどが科せられた。

 1533年以降の再洗礼派の動きは当時の社会にとって大問題となった。革職人メルキオール・ホフマンはルター派、ツヴィングリ派を経て再洗礼派になったが、エノクとエリアのはきだす炎で世界の終わりが訪れると預言し、主の日は近い、その前兆として自分が半年投獄される、新しいエルサレムはシュトラスブルグに来ると喧伝し、神の子たちは闇の勢力と戦うために武器を取れと扇動した。当然ながら市当局はホフマンを逮捕し投獄。

 これを受けて人々は預言の成就と信じシュトラスブルグに武装して集結し、市当局は武装集団を危惧し抑圧政策に乗り出した。そして当日、人々が集まる中、新しい啓示「ここではなくミュンスターへ!」という声が叫ばれた。当時のミュンスターは新旧両派の拮抗勢力圏内であり、寛容な宗教政策をとった街だった。

 ミュンスターに押し寄せた人々は、翌年にはオランダのパン焼き職人ヤン・マティスと彼の弟子ライデンのヤンに扇動されてカトリック教徒を物理的に排除した。司教団はカトリック教皇軍を召集しミュンスターを包囲し、その戦争の高揚の中、ミュンスター城内では、より徹底した聖書主義が叫ばれ、穏健なプロテスタントも追放された。ミュンスター市外では逮捕された再洗礼派は即時処刑となり、長びく籠城のため、城内の食糧事情が悪化し、さらにヤン・マティスが戦死。城内では女性信徒が増えつつあり、それを受けてパン焼き職人の弟子であるライデンのヤンは旧約聖書に従い一夫多妻制の復活を宣言した。

 緊迫する情勢の中、カトリック側の資金不足が問題化する頃に、後のない再洗礼派は、ヤンを新しいエルサレムの王と宣言した。これを機会に残っていたミュンスターの住民たちは過激な幻視者たちに疲れ果て、ついに城門が開かれた。結果カトリック軍によって新王と側近二人が拷問の後、晒し首となり処刑されて、1933年以降の騒動は終結した。

 以上がミュンスターの破滅である。宗教組織の正統性、国家との関係論、男女同権、格差是正、人権問題、聖書解釈、教育、平和主義という古典的かつ近代的な問題を再洗礼派は問うた。国際秩序とテロに揺れる現代において再洗礼派の「宗教と法治国家」という真理契機は、その失敗とともに是々非々で再評価されてよい。

キリスト教と音楽 ヨーロッパ音楽の源流をたずねて

キリスト教と音楽 ヨーロッパ音楽の源流をたずねて

 

 ※以下「」内は上掲本より引用

 一方、ミュンスターの破滅の十年前に、神の導きか歴史の妙か、パイプオルガンの命脈となる「楽器建造の草分け敵存在」ニーホフ一家が家長ヘンドリクと共にオランダ・アムステルダムへと移っていた。t多くのパイプを備え、重厚な響きをめざした北ヨーロッパのオルガンは「多種多様の音色を備えているのが特徴」で「複数の手鍵盤にペダルもあるのが常」であった。

 のちにアムステルダムは、カルヴァンを指導者と仰ぐ改革派の町となる。「オルガンの所有者であるアムステルダム市当局」は「名器を無駄に放置しておく気はありません」と価値を認め、ヤン・ピーテルスゾーン・スヴェーリングという素晴らしい演奏家を、市専属のオルガニストに任命した。毎日朝夕2回、礼拝の前後などで演奏を許可した。当時、改革派教会の礼拝では無伴奏=アカペラ(ラテン語で教会で、の意)だったが「教会側も礼拝外であればさしつかえない」と快諾。「朝夕の演奏には市民達が、そしてやがてその名声を聞きつけた旅行者たちが数多く押しかけるようになりました」「ここでとくに注意したいことは、礼拝のためではなく、オルガンの演奏を聴くために聴衆が集まってきたということは、おそらく史上最初のできごとではなかったのか、ということ」「演奏会の歴史の出発点ともいえるのかもしれません」

 即ち、10年ズレていれば、パイプオルガンの歴史が変っていた可能性がある。それは教会音楽史の変化となり、現代音楽に少なからず影響していたかもしれない。もちろん幸いにして史実において、楽器建造の技術は破滅を免れた。歴史の妙としか言いようがない。

 午後、少しだけ資料に目を通して夕食はもやしスープ。夜、アニメ「この素晴らしい世界に祝福を」を視聴。ありがちなものかと思いきやネット仲間からの前評判の通り、テンプレをキレイにまとめて来ているので好印象である。あと「最弱無配の神装機竜」だが、これはなんていうインフィニット・ストラトスなんですかねぇ…。が、戦闘シーンは楽しいかもしれない。