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にっき:祝!ブレイブ・ウイッチーズ、だがしかし、ストパンは希望

3月3日 木曜日 晴れ

 ストパン新作発表があった。劇場版三部作の最後の感動を経て、ついに続編がくる。生きてて良かった。ストパンは希望である。たしかに艦コレもガルパンもよい。されど、ストパンなくして何を言おうか。なので公開発表を記念して農学部くんとストパン一期を全部みた。彼も好きになってくれたようで何よりである。

 夕方、四条河原町にて打ち合わせというか珈琲。帰宅後、だがしかしを三話までみた。最初疲れるかもなぁと思ったが、頭を使わず、ぼーっと見てられるので、非常によい。これはハマったかもしれない。

だがしかし 1 (少年サンデーコミックス)

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以下、ストパン続編制作決定の報を受けて、以前書いた駄文を置いていく。

今日も少女たちは世界を救う

 現代では少年は世界を救わない。少女が世界を救うのだ。セーラームーンなどがあるので、セカイ系以降の傾向なのか、それ以前からなのかは分からない。しかし、エヴァのシンジ君は辛うじてセカイを救うが、それでも、ほぼ他の少女たちに救われている。その意味では、エヴァが少年がセカイを救う最期の話だと岡田さんが言っていたのもなんとなく妥当だと思う。もちろん、作品の対象を問う必要もあると思う。すなわち、キッズなのか、男性向けなのか腐向けなのか、とか。

 さて、では何故少女たちはセカイを救うのか。ストパンの特徴は前にも書いたので今回は省く。二周目を見て気付いたのだが、この作品はファンへの応答に溢れている。パンツ好きな人にはズボンの描写を欠かさないし、ミリオタには彼らにだけ分かる方法でサービスが込められており、そして、ゆりゆりファンには随所にそれらが込められている。また、ストパンの熱さが好きな人には、きちんと熱くなれるように設計されている。んで、二度目に見て気付いたことが幾つかある。

  1. 和製SFの限界と可能性
  2. 十代の少女たちがセカイを救う理由
  3. 読みこみ過ぎで間違いない作品に込められた作家性

※3年前に公開されたので以下動画にネタバレ含みます。

 まず一つ目。

 ストパンの、または日本製の限界、または日本産アニメの可能性について。そもそもアニメ産業に従事するでもない僕が、すなわち一ニワカでしかない僕が何を語れるのかというのもあるが、僕の言うことなんざ、便所の落書きなので、書く。嫌なら水に流せばいい。で、和製アニメの限界だが、これは宇宙戦艦ヤマトにもっとも象徴的に表れていると思う。日本を象徴する「大和」という名を持つ非業の戦艦「ヤマト」がメシアニックな位置で登場すること、これがまさに和製SFの限界なのではないか。SFと括ると言葉が大きいなら、ヤマトにみる和製作品の限界かもしれない。

 何が言いたいかというと、対ガミラス戦において、わざわざ「ヤマト」を選ぶセンスには、いわゆる普遍性=国際的基準がないということだ。別に、戦艦なら各国にあるにも関わらず「ヤマト」を宇宙戦艦として復活させるところに、ある種の健全なナショナリズムを感じるのだ。かなり大げさな言い方だが、僕はここに、メサイア・コンプレックスにかかった日本人を見てしまう。そして、それはストパンの設定においても同じことが言える。扶桑皇国から来た少女によって、セカイが救われるという意味では、この構造は似ていると思う。

 ストパン劇場版では、ヤマトが最終局面でネウロイ撃破のために、重要な役割を果たすし、使用言語はおそらく日本語で国際的な連合軍のはずなのに、皆「いただきます」「お世話になります」という。そして、撃破後の粉砕されたネウロイと坂本少佐の水上機の一枚絵は、日の丸へのオマージュに見えなくもない。自分でも、これらは全部読み込み過ぎだと思うが、この辺りの設定の仕方に、不沈艦であるはずの「ヤマト」=日本への思いが、メサイア・コンプレックス的に表現されていると見えなくもないのだ。

 付言しなくてはならないのは、これはどんな作品でも言えることで、米国で作られた映画は米国性を帯びるし、フランスで作られたならばフランスらしい作品になるだろう。従って、ストパンやヤマトの日本的限界を問うことは、そのまま作品の普遍性の存在可否を問うこととなる。僕は芸術の専門家でないから分からないが、この辺り、専門家はどう思うのだろう。

 素人考えとしては、作品は、必ず歴史の文脈の中に存在するので、その文脈を反映するし、それで良いと思う。そこにこそ、作品のオリジナリティの場があるだろう。それは、そのまま作品の可能性であるはずである。その意味で、ストパンが現代日本社会で受け入れられ、二期制作、映画化、続編の決定と相成ったことは、そのままストパンがその限界を可能性に変換し続けていることの証左と言える。

 では、次に、十代の少女たちがセカイを救う理由。

 その必然性についてだ。一言でいえばポルノ産業なんだと思う。つまり、可愛い女の子たちが戦った方が商業的には良いだろう、というシンプルな話だ。しかし、ここでも読み込んでみる。ストパンの世界設定において、古来より人類はウィッチという魔法力を持つ十代の少女たちを先頭に異形の敵と戦ってきた、とある。

 僕は、ここに以下の大雑把な定式を見出す。十代の少女の魔法力=性、無垢、可能性という希望つまり十代の少女という非常に限られた期間に与えられる若さとか熱さ、性という大人的属性が発現しつつも、なお未決定・未完成であること=選択前・白紙であることの可能性が、ストパンにおける象徴としての魔法力である。余談だが、これはネットスラングである魔法使いと妖精に通じることでもあるかもしれない。

 で、これら魔法力に象徴される事柄は、そのまま不沈艦であったはずのヤマトに象徴される日本に重なるのではないか。そして、それは青い鳥シンドロームとも言える「今、ここではない、どこか」への希望に変換し得るのではないか。従って、ここでは十代の少女たちという性的未熟さ=無垢さ、純粋さという記号が、そのまま未来の未決定性を担保していると思うのだ。未来が定まっていないということは、まだ逆転可能であるということで、負けてはいないことの確信ともなる。

 そして、この未決定性を男性に託さず、女性に託すところに、ある種の作り手としての男性側の、または男性上位と呼ばれてきた社会構造の支配者側の自嘲が含まれているように思うのだ。2chで誰かが書いていたが、今回のネウロイが男性器っぽいというのも当たらずとも遠からずではないのか。そしてバルクホルンの「溜まってるな」という台詞も、この俎上では無きにしもあらずであるw  ということで、十代少女たちが世界を救う理由は、第一には商業的理由だろうし、第二にはよく分からないが何かにつけ負けている感のある男性側の自嘲的視線があるんじゃないかと思う。

 では、この作品に込められた作家性について。

作家性とは、作り手側が込めるもので、本来的に視聴者に伝わるようなものではないので、完全な読み込みであり妄想である。それを踏まえた上で書くし読んでほしい。では、ストパン劇場版に込められた作家性とは何か。ストパン劇場場は、ルールと人間という主題が、軍規遵守の静夏と、守るためならば軍規など気にしない芳香のやり取りを中心に描かれている。

 作品の結論としては、軍規ではない、人間が応対するからこそ、力を合わせるからこそネウロイという敵を撃破するので、軍規のために人はあらず、人あってこその軍規である、ということになる。読み込みオンパレードだが、僕はここに軍規頼みの日本軍になぞられた現代日本社会への批判を読みとってしまった。ルールがなければ社会は成立しないし、そこに住む人々の生活も成立しない。しかし、危急の際には、ルールを超えて仲間のために戦わねばならぬときがある、というメッセージが、この作品にあるのではないか、と思った。

 この作品の制作委員会には角川、ソニー、日本コロンビアなどが関わっている。角川とソニーとくれば、電通かよ!と情強ネット市民ならピンと来るかもしれない。そして、電通とくれば、戦前創立の戦中・戦後を象徴する日本企業の一つである。

 妄想も甚だしいのだが、アニメ制作には金がかかるし、制作者側は、どうしても配給側やスポンサーの意図を組まねばならない。その意味で、ストパンが、ある種の日本的限界=ナショナリズムを帯びていて、かつサブカルとポル産による金作りとなり、さらに制作側が、そこに自嘲的・逆説的な社会批判を盛り込んだと見えなくはないだろうか。
 自分たちはポル産に乗っかっているけれど、それでも二次元の少女たちに希望を託して、社会を問うているんだという、ある種の確信犯的な葛藤を楽しむ作家性がここにあるのではないか。即ち、まだまだ終わらんよ!という有名なあの台詞にも似た「日本人」への少々幼稚だが清々しくて痛い応援とも言える声が込められているのではないか。

 そして、まさに、この声援にこそ、終わりなき日常を守るための日常を描くという意味において、ストパンは「けいおん」や「らき☆すた」に並ぶ日常アニメとも言えるのではないか。ということで、ストパンについて思うことがあったので、書きとめた。

 作品も声優も配給側も含めた業界全体を愛する者として、そして、この作品を愛する者としては、妄言をかましたが、この作品を送り出して下さった皆さんに筆舌に尽くせぬ多大なる感謝を申し上げたい。そして何度も言うが書いたことは全部妄想であるし、今日も僕は、世界を救う少女たちに足を掬われているのだ(・∀・)