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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:紛失届、物語論

3月5日 土曜日 晴れ

 午前中、カード会社やらに紛失状態について問い合わせた。とりあえず警察にいって届け出たあとに止めることにした。しかし、免許も何もないのでパスポートを持っていったが、そこまでは必要なかったようだ。期せずして往復一時間の散歩。運動には良いが、京都ツーデーウォークとかいう謎集団が大量にて非常に迷惑だった。住んでる人間にまで拡声器で道案内しないでほしい。

 帰宅し昼食はうどんを作って食べた。枝豆おいしい。夕方、物語論のイベントに参加。イベントというのは登壇するよりは見ているだけが圧倒的に楽であり楽しいもんだなと思った。久しぶりに敬愛するオタク第二世代の人にも合うことが出来、また老舗出版社の営業さんとも知己となったので良い時間であった。

 「物語る」というのは人間の認識の構造である。物語る= telling a story=narrativeが意味の重さを醸成するには時間がかかる。その時間を奪い、意味を独占すると、それが独裁になり人間を薄く延ばしてしまう。でも複数の物語を持てば、人は自分の輪郭と陰影に自覚的になる。その輪郭や陰影の中身は勘違いだというのが、ざっくりいえば仏教で、それを信じていいというのがキリスト教だったりするような。結局、文学や宗教の社会的使命は、人々の人生に複数の物語を持つ隙間を穿つことにある。その意味で作家やモノ書きという人々は、他者の物語を背負うという物語を生きるわけである。彼らが物語ることが、人々の物語の呼び水となり、ミラー・ニューロンのうずきになる。

 人類なり風土なり言語という土壌に生えた多くの作家と彼らの作品という幹から、読者という枝や花が茂っていく。その全体が春山の桜のごとく歴史という物語を美しく彩っていく。こうして、物語は途方もない大きさのペルシャ絨毯のように広がっていく。

 ということで、ありていにアウグスティヌスの歴史神学みたいな話になるわけである。リクールを間に合うように読めなかったのは惜しむべきであるが、良いイベントだった。メイド、登壇者、参加者の皆さん、お疲れさまでした。終電に乗り、帰宅すると夜一時。明日は教会にいった後は、また資料を読もう。