どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:ガルパン4DX、スシロー、Κύριε ἐλέησον

f:id:timelost:20160315222455j:plain

3月15日 火曜日 晴れ

 作家氏が帰京する前にガルパン劇場版を一緒に見ようと出発。午後一の上映に間に合うように車で出た。4DXは関西にあまりにないので最寄りの枚方まで。でも枚方まで電車で往復すると地味に高い。京都は住んでしまえば、外に出なくなるが、それは交通費もあるんじゃないか。京都はコンパクトにまとまった街である。

 快晴の中、無事に到着し、たこ焼きコーラを食べて劇場版へ。ガルパンは福音だと思っていたが、劇場版は新約聖書だった。何を言っているか分からないかもしれないが、ガルパンTVシリーズでは、挫折と関係の破綻を経験した西住殿が、それらを乗り越えて川を渡るシーンがある。一度失敗した状況を、今度は能動的に克服した。彼女が心を決めて、一人も失うことなく前進するために各車の間を跳ぶ場面には涙腺崩壊以外ない。

 古代イスラエル宗教の跡を辿る旧約聖書において、人々はモーセによって海を渡り救われる。続いて、モーセの後継者であるヨシュアによって民はヨルダン川を渡って約束の地へと導かれていく。新約聖書においては、モーセもヨシュアもキリストの救いの予型として扱われている。方舟を作ったノア然り、人々は大水の破滅を通って救われる。キリスト教の洗礼は、水の中を通っていのちを得るという象徴的儀礼である。従って、ガルパンにおける川渡りもまた、水の中を通っていのちを得るという意味を象徴的に示したのだ。

 しかも、弱く走れない者たちを切り捨てて進むのではなく、彼らと共に歩むために西住殿は一度失敗した状況を克服する。キリスト教においても、アダムが失敗した契約を第二のアダムとしてのキリストが克服するのだ。この契約的理解は、正教・カトリック・正統プロテスタントの伝統的理解である。すなわち、ガルパンTVシリーズは、余すところなく契約的であり救済的であった。つまり、ガルパンは福音だった。

 そして、今回、劇場版をみて驚愕した。劇場版ガルパンは新約聖書だった。まずボコの存在は、イザヤ書53章における「苦難のしもべ」そのものの姿である。苦難のしもべは、ヨブの苦悩を下敷きにし、イエスにおいて成就したとされるキリスト教的救いの基礎である。

 さらに劇場版においてはローマ帝国下での迫害のごとく、大洗学園は文科省に迫害されている。事実上、一度死ぬのだ。しかし、復活する。気がつけば、もうすぐ復活節である。すなわち劇場版ガルパンは、死と復活後の勝利の物語である。もはや新約聖書以外の何物でもない。そして、世界大会への躍動が示唆される。これはキリスト教が世界宗教化していくという意味での使徒行伝となろう。ガルパン二期でもOVAでも次なる作品が待ち遠しい。

 キリスト教とは多様な聖書的伝統である。すなわち、キリスト教は聖書を中心とした、ありとあらゆる個人・家庭・教会・社会・国家・国際的主体による今も生成され続ける巨大なネットワークとしての宗教現象、人類最大の言語的/非言語的伝統である。その意味で、ガルパンもまた多様な声優的伝統となった。キャラが多く登場する作品は総じて同じことが言えるが、新旧織り交ぜた声優たちの饗宴は、現在も生成される続ける巨大な日本的アニメの伝統であり、ガルパンはその多様な声優的伝統の確固たる一部であるのだ。

 思いがけないところで神を見てしまったので、しばらく思考できなかった。午後、早めの夕食で回転ずしを食べて、帰京する作家氏にストパンを見せた。ちょうど海外廉価版が届いたところだったので良い画質で見れたので満足である。期せずして春のパン祭り(白目)となった作家氏を最寄駅まで送り帰宅。

 十日ほど前から非日常が続いていたので、ちょっと疲れている。明日はゆっくりしてまた一日一冊読了計画を再開せねばならない。夜、僕が大切にしたい人の父上の四回忌であることを覚えた。また一年前、ネット上の知人がツイッターで自殺を報告したことも思い出された。老いも死も我々のものだ。主よ、憐れみたまえ。

Κύριε ἐλέησον, Χριστὲ ἐλέησον, Κύριε ἐλέησον

f:id:timelost:20160317151422j:plain