どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:花まつり、Amare someone、三条の垂訓

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4月8日 金曜日 晴れ

 朝、かなり体調が悪い気がするが楽しみにしていたシュメル語授業へ。一昨日からなんとなく微妙だと思っていたが、院生氏のが感染ったな…これは完全にキテますわ...(白目) 。授業は期待通りでおもしろくオリエント諸語の年代図的位置関係がやっと見えてきた。見知らぬ楔形文字の世界の扉がいま開かれたことが嬉しい。

 帰宅後、今日はアニメみて寝ようかと思ってふらふらになっていたら、チベット研究者の友人より着信アリ。おお、一緒にアニメみようって話かな?と思いきや、本日は花まつり=Buddhamasらしく「年に一回だし見にいきませんか」とのお誘い。誘われるままに風邪薬を途中で買って飲んで、京都は東大路七条・真言宗の智積院、さらに堀川沿いは真宗・西本願寺、烏丸沿いの東本願寺で合計何回か釈迦さんに甜茶かけまくってきた。クリスマスとは違った趣があってよいなと思った(小並感)あと部外者が言うもんじゃないかもしれんが、せっかく屋根の下にいるお釈迦さんに水かけるのって意味不明じゃね?(´・ω・`;)?

 東本願寺では、なんちゃら収骨なんちゃら経と帰敬式を見学。別の友人より連絡があったので、今度は四軒目となるお寺にお邪魔し、結果、講座を一つ担当し手伝うことになった。途中で買った風邪薬でなんとか持っていただけで病み上がりどころか病んでいる状態だったので、とりあえず帰宅して、腹が減っていたのでカラムーチョをごはんにかけて食べた。白飯うまいと思ったのが夕方6時。で、ちょっと横になって目が覚めたら、深夜二時半だった。断続的に寝て起きてはいるが、たっぷり9時間近く寝てた。ネットで友人が経営している店を移転するとの話を読み驚く。東西ドイツ統合に近い吃驚で、思わず首が後ろに動いたのが夜中の3時。街の入れ替わりの早さやビジネスの悲喜交々もあると思うけど、何よりも、前に踏み出していく友人の姿にちょっと感動した。

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 カラムーチョめしを食べた後、アームにつけたタブレットを触りながら某寺庭さまがシェアった動画をみて「受けるより与えるほうが幸いです」というあのことば、パウロがきいたイエスのことばを思い出した。寝起きの頭にあるのは、giving is getting? 春の夕闇に沈む意識の中、やけにアクチュアルな響きをもっていた。新約聖書・使徒の働き=パウロ無双伝には、こんな風にある。

 acts 20:34
あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。
 acts 20:35
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

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 PCに入っているギリシャ語を確認すると面白いことに気付いた。35節前半にある「助けなければならない」は、アンティ・ランバネスサイとなっている。つまり、アンチ=反対の、ランバノー=取り上げる、獲得する 、英語でいう "take" である。中学生的直訳をすれば、意味が分かりやすくなろう。この単語のまとう「助ける」という意味は、その対象から取り上げないこと、すなわち獲得しないことを意味する。

 そして、これを意識したように『受けるより与えるほうが幸いである』というフレーズの『受ける』は、ランバノーを使っている。ある種のことば遊び、駄洒落、パウロの、または彼の名によって書いた筆記者の親父ギャグ的センスがここに光っている。従って、弱く病の人々から取り上げて獲得するのではなく、むしろ与える人が幸いだ、という話。

 この『幸い』というのも、旧約聖書からの響きをともなっている。ヘブライ語になおせば、アシュレイであり、英語でたまにアシュリーちゃんなど女性の固有名になっていたりするが、日本語でいえば幸子・サチコさん、男性だと幸夫・ユキオくんであろう。

 キリスト教圏ではやたらに有名なイエスの教え、山上の垂訓というものがある。これはすべてこの『幸い』マカリオスで始まっている。どうでもいいけれど、山上と入力したら三条が出てくるあたり、中々、僕のPCも京都に馴染んできたようだ。人間だと応仁の乱以前からいないと京都人として認められないらしいが、端末だとどうだろう。

 さて、このマカリオイ=幸いな人という概念は、新約聖書において散見されるが、最後の書簡・ヨハネ黙示録において再び大量に登場する。第五福音書とも呼ばれる所以である。解釈は様々にあり得るが、マカリオイは、固有名詞ではない。つまり、誰かを名指していない。従って、状況と状態によっては誰でもマカリオイになり得る。少なくとも、福音書から黙示録にいたる語法はそれを示しているっぽい。

 なれば、どうなるか。幸いな人とは何か。それは、誰かのアンチ・ランバノーのおかげで、何かをランバノーした人、誰かのランバノーのために与えた人のことである。とまあ、やたらに宗教くさい話になったが深夜なのでセフセフ。

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 体調が悪いからだろうが、天啓はひらめく。天翔ける龍の閃き、九頭龍閃。楔形文字文学にギルガメシュ叙事詩がある。ノアの方舟の原作として有名になった話である。今日、授業で聞いた話だが、シュメル語では、洪水物語の各プロットが個別にほぼ出来上がっている。それがアッカド語に翻訳されるとギルガメシュ叙事詩として、ほぼまとまった形になり、旧約聖書の段階では宗教正典・文学作品として多くの人に知られる今の形となっている。

 メソポタミア、中近東あたりの人々が6千年ほど以前から共有していた物語の枠組みが、そこにある。そして、その物語に人々は神を見出した。表題のAmareはラテン語の不定詞で「愛する・愛している状態」である。誰もが何かを愛している状態、それが物語。

 僕の愛した場所が初夏を前に移転するときいて、切なくもあり、しかし、紡がれた物語は聖痕のごとく僕の強さとなっている。友人の夏に向かう一歩を祝福したい。すべての事柄は両面的だ。人を雇うことは、そのまま神の御旨にかなっている。リーマンとして主婦として、様々に働いて誰かに何かを供与することも同じく。広大なネットの海で枯れ珊瑚が泡を吹くようにつぶやくことが、どこまで神の御旨にかなうのかは僕には分からない。しかし、amare someone、仏の花まつりの後で京都は三条の垂訓としてここに記す。

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