どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

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にっき:道に迷う、「イカ娘」最終巻、餃子うますぎ

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5月8日 日曜日 晴れ

 午前中、日曜日なので礼拝へ。今日は久しぶりに聖公会へ行こうと思っていたが、ぼーっとしていて曲がる道を間違え、さらに適当なところで曲がったので道に迷ってしまった。で、聖公会は諦めて再び近隣のカトリックへ。ミサに参列する前に、イカ娘最終巻を買った。素晴らしい漫画・アニメだったが、もう続きが見れないと思うと悲しい。作者の先生には、ぜひしばらく良い休みを得てほしいし、次回作に大いに期待したい。あと、おそ松くんのDC版が出てた。ほしいけど今回は見送り。

 昇天日ということで赤ちゃんの洗礼式もあってか、全体的に良い雰囲気だった。ちょっと笑ってしまったのは、赤ちゃんがオムツを代えるために母子が席を外したあとで、洗礼式になったことだ。老司祭が「あれ?赤ちゃんがどこかいった?」と言ったのは可笑しかった。

おそ松くん ベスト・セレクション (ちくま文庫 あ 34-3)

おそ松くん ベスト・セレクション (ちくま文庫 あ 34-3)

 

  昨晩、友人より聞いた人間の小脳の話をぼんやりと思い出す。うろ覚えだが、人間の脳は、美しさと正しさを同じ場所で担っているらしく、しかも美しさの方が正しさよりも強い衝動なのだ。従って、間違ったことを言っていても美しければ、それで通るという我々の日常経験がどうしようもなく生理学的に肯定されるという話になる。

 赤ちゃんの洗礼式という、何か人類史的に美しい光景をみながら、一方で、これは正しい感応なのだろうかと思った。なぜ自分がカトリックの礼拝を好むのかという理由が、これとなんとなく通底している。僕にとって、カトリックの礼拝は、形式だからこそ良いのだ。歴史的伝統という形式の前だからこそ、無数の複雑な日常的記号、象徴の連鎖反応、その操作から休らうことができるのだ。プロテスタントの信徒であるがゆえに、カトリックに出て、さまざまに己を知る機会を得たということだろうか。司祭の話は、栄光の雲とは神の次元という内容で、中々興味深かった。

 帰宅後、読書、ブログ更新。夕方になり、ちょっと気分転換がてら日課徒歩。外で一服していた高知くんも歩くのが好きらしいので、今回は北山通りまで上がり、鴨川沿いを下って戻った。帰り道、ふと餃子をつくりたくなったと彼が言うので、夕食は餃子となった。

 実は、高知くんは調理師免許を持っている。思わずプロの餃子に与れることになった。うれしい。にしても、超絶クオリティで旨すぎてワロタ。ほとんど、国家錬金術師の力を目前でみるくらいの驚愕を得ている。もちふわの皮、カリカリの底、ジュワとろの詰まった肉には大葉、マイタケ、白菜、ニラ。さらに馬路村のゆずぽんが口の中で、スイートにJazzってる。何を言ってるかわからねぇと思うが…(ry

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