どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:徳川家光、プロ倫、死海写本1QIsa-a、

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6月28日 火曜日 くもり

  昨晩は寒かった。昼もこれくらいの気温にしてほしい。朝、なぜか徳川家光の名前のことを思った。徳川家光、すなわち徳川家の光である。遡って、秀でて頼りになるように、家が康らかでありますように。親の祈りが見てとれて急に過去の将軍家が身近に思われた。誰でも名付けられるときには、親の祈りがあったのかもしれない。仮に祈りなくとも、名前は関係性の中でしか存在しないのだ。そう思うと神の名について、CSルイスがナルニア国でアスランに言わせた「私は多くの名前を持っている」(うろ覚え大意)ということばが何かを意味しているように思った。旧約聖書のイザヤに現われた神の名前、モーセに現われた、アブラハムに現われた神の名前。関係性によって、名前は多くなる。そして、人間との関係性が途切れても、神との関係が残るわけだ。さらにいえば、象徴と記号の機能=概念化・抽象化という人間の本質的機能に神は住んでいる。その刻まれた在りようこそが「神のかたち」なのかもしれぬ。従って、可能な無神論としての無関心というのは、人間構造そのもののが壊れた場合にしかないのかもしれない。

 朝、授業はプロ倫が久しぶりに出てきて、その仮説性と論じ方の第二段階の問題について考えた。日本の知識人はヴェーバーを読んで一神教を分かったつもりになっている、というのは言い得て妙である。功罪の罪は、少なくとも日本では大きいのではないか。昼食後、連絡があったので、先週製本を頼んでいた店へ行き、死海写本コピーを入所。重い。授業後、古典語教授と餃子たべていたら20年前のJ-popが流れてきた。歌の記憶というのは凄いものがある。20年前の内容を思い出せるのだ。不思議。

 夜、僕の生死を問う昔の知人に少しだけ腹を立てて、昔を思い出した。スラムダンクのOPED集をyoutubeでひたすら聞いた。名前について考えた一日。