どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

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にっき:古代バビロニア、宗教改革、八坂神社みたまうつし

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7月15日 金曜日 涼しい一日

 朝、肌寒いくらい。素晴らしい天気である。以前買った『バビロンとバイブル』という本を最近読んでいる。よく言われる話だが、キリスト教の旧約聖書≠ユダヤ教の律法の背後には古代バビロニアの神話、すなわちギルガメシュ叙事詩があり、さらに、そのギルガメシュ叙事詩はシュメール語文学に遡る。ギルガメシュは邦訳もあるし、シュメール語の洪水伝説は英訳がオクスフォードのHPで読める。『バビロンとバイブル』は、もともと修道士になるために入った学校で学び続けるうちに、聖書からさらにその奥にある古代史に魅せられたジャン・ボテロの記録である。翻訳が良いので読みやすい。

 ギルガメシュの粘土板資料が発表された際、欧州キリスト教世界に激震が走った。唯一無二のはずだった「神のことばである聖書」が、実は、別の古代文学のコピーである可能性が出たからだ。たしかに、そういう言い方もできよう。ただ僕の感覚でいえば、神は人類の通常の営みにおいて働き、顕れる。つまり、神は古代バビロニアまたはメソポタミアで共有されていた神話構造を土台にして人々に語りかけた。それぞれの時代・言語間での連続性と非連続性は、グラデーションとして理解したほうがよい。すなわち啓示の密度と濃度の問題である。

 今朝のシュメール語クラスも楽しいものだった。行政経済文書を読んでいるが、年利33.3%の貸付などは驚く。そりゃ破産するし裁判沙汰になっても仕方ないだろう。あとは容量に関係する度量衡の話。重さについてはgin4またはgigを使う。1ギンが60分の1マナであり、1マナが500gである。1ギンは、いわゆる1シェケルで8.333...g。このいシェケルが現在のイスラエルのシェケルと同じかは分からない。あとは1リットルが、1シラ。10シラが1バン、6バンが1バリグ、5バリグが1グル、1グルが約300リットルとなる。おもしろい。前期の金曜クラスは今日が最後なので次は10月。それまでに復習せねば。

 昼食を食べに帰宅。院生氏、高知くんとそばを食べた。夕方、研究発表を聴講。宗教改革に関するものだったが、当時の人間関係というのは複雑である。誰もが知っている名前は、ルター派のルターと改革派のカルヴァンくらいだろう。ただルターと同年代の改革派にはツヴィングリがいるし、その弟子の中から再洗礼派が出て、チューリッヒを継いだのはブリンガーだった。ブリンガーはルター派との共通聖餐理解を求めたが失敗した。またカルヴァン亡きあとは、テオドール・ベーズがジュネーヴを継ぐ。この人々の間にブーツァーがいた。発表は質疑応答において、中世末期ユマニストの記号論や象徴論と現代の言語論との関係問題に発展した。非常に興味深い。が、難しい。

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 夜は昨晩、宗教学者の友人より連絡があったので、高知くんと年に一度だけの八坂神社の御霊移しを見学にいった。夕食は、近所にあったラーメン屋にて。おいしい。

 京都で迎える三度目の夏にしてやっと祇園祭に参加である。八坂神社の祭神スサノオが神輿に移る儀式である。その瞬間は、境内の電気は落とされる。神宿る暗闇を浄闇というらしい。初めて聞いた単語だ。午後8時、月も雲に隠れ、神職がどの母音か区別できない声を発しながら、白い布で囲んだ空間行列を構成して、注連縄の向こうを通っていった。闇の中での神の顕現、旧約聖書でいえば創造以前の時空における大いなる深淵。シュメール語でいえば 神住まう地下世界の淡水"abzu"すなわちアッカド語"apsu"であり現代英語でいう"abyss"である。

 考えてみれば、キリスト教徒は毎週神降ろしの儀式に出席しているわけだが、ここでは別の神が降臨しているんだなと思った。京都のおもしろさは、こういうところにある。もちろん他の古い町でも同じだとは思うが、近代的都市であると同時に呪術的・魔術的な古層がふと顔を出す。この神事に出席する氏子なり町衆と思わしき人々の誇らしげな背中、みたまうつしの際に頭を垂れて曲げた背中の向こうに、静かに神が通っていく。注連縄が結界を張れば、すぐに神の通り道が顕れる政令指定都市なのだ。

 残念ながら消灯の瞬間にもカメラを回し沈黙できない類人猿がいたが、スマホを撫でるしか能のない動物には宗教なり歴史を解せよというのも無理なので仕方ない。ということで宗教学者のガイド付き祇園祭、なかなか贅沢だった。帰り際、休憩がてら老舗っぽい洋食屋に入りジンジャエールを飲んだ。米国より輸入したものらしいが美味しい。その後、歩いて帰宅、京都のコンパクトさを実感する。本当に涼しく歩きやすかったし、過ごしやすい日だった。毎日こうであればよいのに。

 古代メソポタミア、中近東、中世から宗教改革期の欧州、そして日本における宗教ということが目まぐるしく現象した一日だった。

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