どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

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にっき:ボランティアした、暑い、するめ天

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7月16日 土曜日 快晴

 朝食は朝マック。久しぶりに食べた。午前中、ボランティアついでにヨハネ黙示録の概論講義に出席。1999年、七の月、アンゴルモアの大王がノストラダムスのなんちゃらカンチャラということで、とかくセンセーショナルに扱われる黙示録であるが、どういう書物なのかということを学ぶ。なるほど。

 興味深いのは、黙示録の解釈史、ユートピア論の側面である。端的に、黙示的・終末論または千年王国論には二つの類型がある。黙示録に書いてあることを今に読み込み、現在化する人々は、アウグスティヌス、ルター、カルヴァンなど、歴史的・伝統的な正統教会と契約神学の系譜である。他方、千年王国や黙示録について、切迫した終末意識から現状を批判し、未来を待望する解釈は、フィオーレのヨアキム、トーマス・ミュンツァー、清教徒の第五王国派、新興プロテスタント諸派などが挙げられる。

 万能の天才アイザック・ニュートンは、そのどちらに偏るでもなく、現在的・未来的解釈の両者を折衷した終末論理解を持っていた。現在を認めつつ批判精神をもち、しかし未来を展望する穏健な立場だった。なおニュートンの神学的立場は異端とみなされるものだった。

 ユートピア思想としての黙示的終末論については以下の指摘が非常に示唆的である。

…黙示的終末論は、しばしば、性や身体の抑圧という別の問題を生み出し、合理性や社会的規範性の全否定論を帰結するものとなる。したがって、西欧キリスト教における黙示的終末論の伝統を正当に評価するには、千年王国論やユートピア思想のもつ両義性を十分に視野に入れて分析を進めることが大切である。

…ユートピアは人間の感性に直接訴えかけ人間を行動へと駆り立てるものとなる。つまり、ユートピアは所与のものを変革する力を有しているのである。しかし、ユートピアは不可能なものをあたかも可能であるかに見せかけ、「幻想的に誇張された願望」へと人間を導くものである限り、非真理である。それは、不毛であり、そこからは新しいものは何も生まれない。

…人間が既存の秩序の閉塞性を乗り越える夢を必要としている限り、転換的知恵あるいは解放的イマジネーションの担い手としての千年王国論・黙示的終末論の歴史は、いまだ閉じておらず、その最終評価は未来の課題としてのこされている。なぜなら、ユートピアは人間存在の本質に属しているからである。
 “ユートピア的な諸形式で思惟することが人間存在に属するとするならば、ユートピアは人間が取り除きうるものではなく、人間が存在する限り存在するものなのである。(ティリッヒ、1951)”

芦名定道・小原克博『キリスト教と現代』2001、p.140ff

  宗教の持つ相対化機能は批判精神でもあり破滅願望にもなり得る。その両義性に、または曖昧さに、人間が立っているという感じ。午後、ボランティア参加者と構内散策。昨日の気温が嘘のように真夏である。帰宅後は今度の発表準備。夕食は久しぶりにスルメ天を食べた。おいしい。

フィオーレのヨアキム―西欧思想と黙示的終末論

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キリスト教と現代―終末思想の歴史的展開 (SEKAISHISO SEMINAR)

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