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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:書いた、ぞい2話、編集

7月25日 月曜日 晴れ

 一日、発表原稿を書いた。休憩がてらNEW GAMEぞい2話視聴。夜、ネットでジャーナリスト&アカデミスト(自称)の人の言説と記事を読んで失笑をこえて呆れてしまったので、某大手メディアに勤める友人たちとメディアの役割について雑談。

 僕はアカデミズムもジャーナリズムも素人なので好きなことを言うと、近代社会を支えるメディア=言論の場であって、主義・主張を伝える道具ではない。スマホで撮った手ブレ写真と手ブレ動画を垂れ流して、聞いたことを日記のごとく全部書くのは、小学生の日記であって断じてメディアでも報道機関でもない。それはただのブログだ。

 近代メディアの役割って、構成する大衆市民に必要な事件・出来事について、情報を縮減し編集して「事実」として問いかけるってところにあると思う。垂れ流しは、いわゆるプロパガンダや広告であって、報道ではない。
 またアカデミズムは、近代社会の基礎的作業の部分で、もっと厳密な手続きだ。想定される聴衆は学会と学者。近代社会の体系知の核である自己再帰性が、学会・大学・出版にあり、アカデミズムはそこに依拠している。ジャーナリズムは基本的に、その近代的知的インフラ(学会・大学・出版)を前提に市民・大衆に情報を提供するってのが目的なわけ。バイトの僕でも、ちょっと考えれば、これくらいわかるけど、報道関係者(自称)でこれかと思うと末法の世感ぱない、みたいな。

 ヒストリエの原義は「調査されたもの」だ。すなわち「調査」というところに、記者なり文屋なりの矜持、責任がある。で、それが一般に「編集権」と呼ばれるものだ。多種多様な主義主張を複数の「編集権」が縮減して社会性をもつ言論の場をつくる。そのためには、個々人の記者や文屋には会社や組織に振り回されない縦軸、歴史性が必要になる。この歴史性が端的に「編集権」の理解にかかっている。これを理解できないなら、その人はたぶん報道にも研究にも向いてないんじゃないかと素人ながらに思った。