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にっき:暑すぎる、部屋をキメた、シンゴジラ感想

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※↑高知くんが撮影した香港の様子

8月10日 水曜日 晴れ

 朝から午後まで引越先の選定。不動産の見学二つ、一つにキメたい。いろいろと迷ったが、最終的に二つにしぼり、とりあえず問い合わせてみたら、今日今からでも見学できますとのこと。なので、二軒みたが、結局、広めの1kを借りようという感じ。ただ接客は良いのだが、割に抜けている感がある営業さんなので、ちょっと不安。とにかく早く金を振り込めと言ってくる。これやばいんじゃないのか。

 あまりに汗をかいたせいか頭がいたい。熱中症か...怖い。夕食にカップラーメンとシリアルと食べて、書こうと思っていたシンゴジラの感想を完了。以下、興味ある方あればご笑覧頂きたい。なおネタバレを含むので、未視聴の人は見ないでください。

 

 

1.名作の誕生

 一回観たあとは、ただその衝撃に驚き、二回目はその衝撃を理解し、三度目に一つの視点なりテーマを設定して観てみたので、感想を以下に述べる。なおtwitterで「ガルパンは語彙を失わせる」という話があり、なるほどと思った。誰も彼もが「ガルパンはいいぞ!」としか言えなくなるのだ。同様に、ゴジラもまた語彙を食われる映画だ。そして、食われた者は語彙を埋めるために語り出す。然り、全ての名作はそうである。観劇者自身の深度が、鏡のように作品の深度として初期設定され、それぞれに新しく開いていく。

 最初に出てきた、僕の感想は「一アニメ監督に過ぎない庵野秀明が、思想として普遍性・世界観を獲得した、その瞬間を目撃した」というものだった。彼はエヴァンゲリオンの監督ではなく、今後「庵野秀明」として呼ばれるだろう、と本当に思った。

 本作品とハリウッド映画を比べると鮮明な気がした。シンゴジラを観る前日の夜「インディペンデンス・デイ 復讐」をみたが、同作では、数百億円の製作費を費やしてアメリカのローカリティ(特殊性・固有性・地域性)を描きつつ、それをグローバリズム(普遍性)に昇華した姿が描かれた。対して「シンゴジラ」は、その十分の一にも満たない予算で「日本」を描くことで、日本のローカリティを描き、別の世界観・普遍性を獲得した。すなわち、ハリウッド映画とは別の方法で、別の到達点へと行きついた。


2.一般的な解釈

 三回みて、何が描かれたのかを理解した気がしている。もっとも分かりやすいのは、3.11.震災と福島の原発だ。響くゴジラの足音、進むゴジラの巨体がそのまま地震と津波のメタファになっている。おそらく、これは誰にでも分かるように出来ている。

 次に、分かりやすいのは、初代ゴジラへの敬意だ。1954年・初代ゴジラの問題意識を正当に継承した形でゴジラを描いた。2016年・庵野版ゴジラをみれば、それが2014年ハリウッドのギャレス・エドワーズ版ゴジラさえも踏襲した作品であることは自明であろう。
 そして、特撮ファン、エヴァ以来の庵野ファンへの答えが続く。宮崎駿ではなく円谷英二の正統後継者としての自覚とそれを証明する圧倒的クオリティは、特撮ファンへの挨拶だ。エヴァを引用することでエヴァを超克したことを示し、エヴァの続編停滞の理由を明かしたことは、庵野ファンへの応答である。ゴジラに対してオタクから上がるであろう二つの問いかけに対する二つの答えが示されている。「どうしてゴジラを作ったの?エヴァはどうするの?」監督は見事に答えて見せた。

 では、他には視点を豊かにするために何があるのか。おそらく日本中で僕くらいしか書かないであろうことを加えるならば、表題、ヨハネの黙示録としてのシン・ゴジラになる。

 

3.日本版ヨハネの黙示録、シン・ゴジラ

 ヨハネ黙示録とは何か。ヨハネの黙示録は、新約聖書の最終巻である。日本語訳の当初から「黙示録」という用語が当てはめられて、何かしらセンセーショナルで恐ろしい印象が付きまとうが、元来の意味は「覆いを取り除く、明らかにする」という意味であり、直訳すれば「啓示」ともいえる。

A. visual≧verbal

  キリスト教は基本的に神の啓示たる正典=聖書=「神のことば」を中心とした宗教であり、正統か否かを分けるのもコトバの用語法の問題だ。「神のことば」の解釈が問題になる。だからキリスト教は「言語的」宗教である。すなわち、visualではなくてverbalなのだ。しかし、ヨハネ黙示録だけは違う。黙示録は、象徴を描き、イメージを召喚・惹起して、その連なりで聞き手と読者に語りかける。すなわち、黙示録の特徴は、そのvisual性にある。

 ヨハネの黙示録だけは、一つ一つのことばの解釈というよりは、ことばによって描かれたイメージの連なりによって意味を伝えようとしている。水滴と波紋が次々に重なって幾何学的な形を示すかのごとく、ヨハネ黙示録は、ことばではなく絵を重ねながら読者・聴衆に意味を伝えようとしている。この点が、まずヨハネ黙示録と映画シンゴジラの共通点といえる。

 

B. 想定される読者の複数性

 黙示録の読者・聴衆は、第一に昔のトルコの七つの教会に集う人々であり、第二に「七」という数字に象徴される全教会が読み手・聞き手として想定されている。読み手は七つの教会とそれ以外の立場をとり得る。従って、ヨハネ黙示録は少なくとも八つの具体的な視点から読むことが可能であり、八つの解釈に最初から開かれている。七つの教会は、各自の立場や文脈から黙示録を読めるし、七つの教会という具体的背景を持たなくても読むことができる。これらの点が、シンゴジラと同じである。

 次に、最初から幾つかの視点からの解釈に開かれていることも共通点である。ヨハネ黙示録は最低でも八通りの読者・聴衆を想定していた。シンゴジラは上述のように、歴代ゴジラ関係者へ、怪獣・特撮ファンへ、エヴァ・ファンへ、宮崎駿へ、右翼と左翼へ、国民へ、政治家へ、アメリカへ、海外へという視点が用意されている。どこから見るかで見え方が変わる。すなわち、それは作品の幅であり、多義性であり曖昧性とも言える。

 もちろんverbalなものがないわけではない。本作において特徴的なワードはいくつかある。特に重要なのは「好きにすれば」である。ゴジラを研究し行方をくらまし、おそらくはゴジラとなった牧博士のことばは、そのままゴジラを好きに作ってみせた監督自身から、あらゆる立場の観衆への問いかけとなっている。

 

C.戦後と震災以後としてのシン・ゴジラ 

 庵野は、シンゴジラにおいて、日本の戦後史を総括した、というのが僕の所感である。すなわち、初代ゴジラの持つ社会契機を起点として、日本特撮史、アニメ史を継承しつつ、自衛隊、憲法改正、民主主義、原水爆、日米安保、国連といった戦後史のキーワードを用いて、東京というコスモロジーの終末論を描いている。ヨハネ黙示録は、キリスト教ローマ帝国以前の初代教会のコスモロジーであった。
 ゴジラ登場、最初のゴジラ上陸までは、自衛隊と憲法改正が問題となっている。ゴジラ再上陸から停止までは、戦中である。東京大空襲にも似た破滅の描写が、震災時の東京を中心とした関東地方の自画像を映す。ゴジラ停止から終演にいたるまでは、3.11.震災以後の日本が主題となっている。

 

D. 東京の自画像と目に入らないもの

 そして、上述のものが描かれつつ意図的に隠蔽されたものが浮き彫りになる。皇居、地方、宗教、障碍者という「日本」である。東京を中心とした生活圏内の実感には、程度の差はあれ、実は、天皇も地方も宗教もホームレス(社会的底辺)も目に入らないのである。「現場」で働く者の力が描かれつつ、そこで働けないものは目に入らない、狭小な東京的自画像が浮かび上がっている。東京圏内の傲慢さが明らかになる。自衛隊や憲法を描きつつ、沖縄は出てこない。東京駅と丸の内があれだけ破壊されつつ皇居は一切映らないのである。
 
E. ゴジラに仮託されたもの

 では、ゴジラは何を表現しているのか。ありていな解釈だが、ゴジラは日本そのものだ。大都市を蹂躙するゴジラは、戦中に日本が世界に対して行ったことの自画像である。それを止めるには世界の大義を背負う米軍の熱核攻撃しかないのだ。自衛隊の飽和攻撃に対してビクともしないゴジラが、米軍機の攻撃には倒れるのである。また戦後という意味では、ゴジラの行いはアメリカが日本に行っていることとも言えよう。さらに読み込めば、ゴジラは、日本人が日本人に対して行っていること、日本人の、人間の暴力性そのものとも言える。その暴力性が、原発問題、政治の腐敗、他国の脅威など内外のものと互換性を持つ。

 

F. 抵抗文学としてのヨハネ黙示録

 ヨハネの黙示録は、抵抗文学である。虐げられたキリスト教徒が強大な敵に対して勝利の約束を信じて進むための約束と鼓舞の福音である。そこには、当然、圧倒的絶対的支配者としてのローマ帝国や腐敗した中央に立ち向かう自画像がある。これを描いているのが抵抗文学としてのヨハネ黙示録である。

 この意味で、シンゴジラもまた抵抗文学である。自衛隊、憲法、現場、戦争の記憶、アメリカ、震災という両義的・曖昧な戦後史と自画像を描くことで「日本」とは何か、ということが問われている。そう考えると、明確に発露するセリフ「好きにすれば」が響いてくる。いいかえれば、あなたはどうするのか、という問いかけが観客、日本人、世界に対して開かれている。

 

G. 更新される「Japan」イメージ

 現在、ハリウッド映像作品における日本のイメージは、侍、忍者、芸者である。結果、もうすぐ公開されるスーサイド・スクワッドでは黒髪ロングの美人(芸者)が超人的アクション(忍者)で刀を振り回す(侍)というアイコンになった。しかし、今回のシン・ゴジラが、伝わる人に伝われば「いまここにある日本」が更新されるだろう。冗談抜きで、数百億円という製作費をかけて作られるハリウッド映画が映し出す米国的普遍性=白人男性のグローバリズム、に対して、十数億円(中国の新人映画監督が使う額、ハリウッドでは10分撮影するための額)で、庵野英明は、日本的普遍性ということをハリウッドとは別の形で見出して映像化した。

 

結語

 では、日本的普遍性とは何か。それは戦後史と自画像の両義性・曖昧性であり、劇中のことばでいえば「スクラップ&ビルド」である。従って稀代の才能が問うた「日本」、シンゴジラの行方、シンゴジラ後の世界は観客に開かれている。ヨハネ黙示録のように来たるべき理想的な大団円を目指して、進軍する兵士のように忍耐強く、胸躍らせる花嫁のように期待して歩むか否かが問われている。

 スクラップ&スクラップという約70年前の焼け野原から、スクラップ&ビルドへと踏み出した戦後、そして震災以後という今をどう生きるのか。あり得た未来を描くシンゴジラを観てどう思うのか。石原さとみは言う。「好きにすれば」。