どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:自己責任、翻訳と通訳、altruism?

http://www.interq.or.jp/tokyo/yaso/~is6f-isi/cult/yabou/vio01-03.png

10月25日 火曜日 曇り

 朝「自己責任」論を読む。2chのまとめサイトに慣れ過ぎてスレタイだけ読んで一秒以内に判断するクセがついているので、事実とは真逆の印象を持つことが多い。今回も、この平野氏がヘイターなのかと思っていたら違った。ちなみに、ボブ・ノーベル云々も見事にハマったので、釣って釣られて攣っては吊られ、ツラい人生である(適当)

 アマルティア・センは京都賞関係と授業でしか名前きいたことなかったが、なるほど。個人的には逆のパターンを危惧してしまう。おそらく根性または今生が曲がっているのだ。すなわち、あくまで本人が自己責任だと理解し満足し主張しているにも関わらず「いや、あなたの責任じゃないから(微笑み」みたいになる場合。そこで「自己責任」なんか存在しない、と声高になるのも、これまたファッショな感じを受けるがいかに。

 あとSNSなどで見知らぬ他人様の顔写真アップが出てくる仕様をなんとか改善して頂きたい。いえ、皆さん、ゴブリン・オークの僕よりはマシだと思う。しかし、新聞でも何でもないところで、友人の友人というだけで誰かの顔写真を見せられるのはキツい。

 そんなことを考えていたら、SNSでの「写真と言葉」の投稿は、自己目線を他者と共有した結果、自他の視線融合が起きて、アイデンティティが揺らいで、その危機に対して自我を守るためにさらに投稿したくなるという螺旋悪循環の可能性、そしてこの地獄のありようは、まさに蝉丸Pの仰る「ネット輪廻」の一端だなという電波を受信した。

 午後、研究室召集にて発表を聴講。翻訳という作業を理論的に解明していくというのは興味深い世界である。起点テキスト⇔原文⇔訳者⇔翻訳⇔目標テキストの間で何が起きているのか。mono-textualか bi-textualか。「等価」とはいかなる意味か。リクールの言うように「等価」は見果てぬ夢であって、可能か否かを論じる不毛をさけて、誠実か裏切りかという倫理問題へと転換すべきか。リクールの語る「言葉のもてなし」―理解のために排除も同化もしない他者の歓待―を互恵的に把握するのか。翻訳というのは、事実として解釈の一部を成すわけで、このあたり、冗談でも足を人文学に突っ込んでいる身としては考えさせられる。

 授業後、一度、家に戻りバイト的時間のための隣の大学へ。フロイト、アドラーなどの心理学から利他alturismへ。この流れを社会的に増加させるにはどうしたらよいか、というような話。英語だったが通訳者の意訳があまりにも過ぎて、これはクレーム出ないのかと余計な心配をしてしまった。偉い先生方に挨拶などをして帰宅。

 心底どうでもよいが、下種の勘繰りで、MBAや自己啓発とかに夢見る人が、カイジやナニワ金融道、ウシジマ君、ベルセルク、野望の王国とか読んだらどう思うのか。少し気になる。そして期せずして、自己責任、翻訳と通訳、利他ということを考える一日となったが、果たして。