どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:日曜日、回線最悪、同居人たち

12月11日 日曜日 晴れ

 午前中、今日は聖公会へ。西洋古典君に会ったので、ガストで昼飯をくい近況報告。互いに論文で忙しい身である。彼も修士に進むつもりらしいので、こうやってたまに会う年若い優秀な友人として、もうしばらく続くのだろう。有難い話である。彼が教えてくれた中世ラテン語の話はおもしろかった。

 もしラテン語がこのまま異教徒の手の中にのみ局限され、弄ばれていたら、そしてもしラテン語がキリスト教徒によって、教会の言葉として採用され、説教と伝道の道具とされなかったら、あるいはラテン語は創造の歴史をCL(*古典ラテン語)で終えていたかもしれない…いわばラテン語は枯死寸前に、キリスト教によって新しい息吹を取り戻したのであり、文学活動を再生させることによって、いっそう長い生命を保ち得たのである

 …こうしたラテン語のキリスト教化に対し、異教の伝統を保っていた知識人は、ラテン語の純粋さが損なわれるといって抗議した。この異教徒たちは、410年、ローマが西ゴート族に荒らされたとき、『これは異教の神を廃したことへの罰である』といってキリスト教徒を非難したものである。」後者の中傷に対して堂々と De Civitate Dei で答えた Augustinus は、前者のあら探しに対してこう反論している。『Salvator という言葉がラテン語かどうかをめぐって論争する資格は、異教の語学教師にはない。

 …キリスト教徒こそ、これが本当にラテン語かどうかを問うべきである。なるほど salvus はラテン語である。しかし Salvator がやってくる迄は、salvare も salvator もラテン語ではなかった。…Salvatorがラテン人の所へやってきた時、はじめて、これらがラテン語となったのである。』(Sermo, 299.6)」

 「…Cicero の雄弁や音楽に慣れた耳には、このスコラ哲学のラテン語は気になった。十四世紀以降、ルネサンスのhumanists、宗教改革者が、これを‘Mönchslatein’とか‘Küchenlatein’とか呼んで軽蔑し、これとの対決を宣言した。…ルネサンスの人文主義者たちは、再発見した CL の美の陶酔に浸って、CL を奴隷的に模倣し、その厳格な文法規則を自己に課し、ML(*中世ラテン語)にあったところのラテン語の自発的な発達や環境への適応性を封じ込め、遂にラテン語そのものの首をしめてしまった。...つまりラテン語は正しく『死語』と呼ばれる状態におち込んだ。」

(國原吉之助「中世ラテン語入門 新版」大学書林より引用)

 毎度、知らないことを教えてくれるので勉強になる。有難い。夕方過ぎより、ネット回線が10分に一回、ひたすら落ちる。何なんだ...(白目) 携帯の解約月に入っているので、回線契約と合わせて考えるべきかもしれない。

 夜、以前のシェアハウス同居人たちとスカイプ。英国在住の友人も加わり、英独日で話す楽しい時間となった。皆元気そうで何よりである。が、10分に一度回線は落ちた。回線が切れるたびに僕がキレるので、やめてほしい。光回線とか冗談だろ...。そしてニコニコ10周年か。僕は2008年の夏以降だが、もうそんなに時間たったのか。

中世ラテン語入門

中世ラテン語入門