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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:売切、UFO手帖感想、ブレちゃん

2月15日 水曜日 晴れ

 昨晩、口裂け女に続けて洪水伝説の番組も少しみた。世の中の不思議なことは楽しい。あとバレタインデーだったことを忘れていたが、チョコをもらってみたい人生だった。

 朝、フィッシュサンドを食べたいと思い、近所のパン屋へ。これで二回目だが、また売り切れ。次に売り切れだった場合、フィッシュ三度…。無念。別のパンを買ったが、次こそ、フィッシュサンドを食べたい。午前中は校正済で返ってきた原稿の確認など。

 そのあと2時前まで、UFO手帖の感想を書いた。こういう金にならないものを書くのは楽しい。

「UFO人文学の可能性」

 SPファイル友の会発行「UFO手帖」創刊号を嬉々として開いた。折しも修士論文を提出し一仕事終えたあと、ネットの大海を漂っていたら、予期せぬ未確認飛行物体のように、それが目に入り、気が付けば郵便ポストに投下された。

 恐竜、妖怪、UFO、超古代文明。子どもの頃、超常現象が大好きだった。不思議なものは「聖なるもの(R・オットー)」だった。矢追純一の特番をみては魅惑されつつ戦慄し、カーテンの隙間からみえる夜空を見ながら布団にもぐった。

 子どもの頃に夢見た海洋考古学者にはならず、現在は宗教学・神学を中心に思想・歴史の研究と斜陽産業の業界記者を生業としている。ヴァレの特集を読みながら、これこそ自分が求めていた言説だと思った。

 18世紀の啓蒙主義を経て、19世紀、西洋では科学とキリスト教が「絶対性」をめぐって戦った。20世紀、これは不毛な争いだと誰もが気付き、科学と宗教をめぐる言説は、実在よりは機能へと傾いた。神が実在するか否か、ではなく、神を信じる人々にとって、神はどのように機能しているか、を問うようになった。大雑把にいえば、存在と意味を分けて考えるようになった。

 しかし、21世紀、ハイデルベルク大学で「死者の復活」というシンポジウムが開催された。「イエスの復活とは、新しい物理法則なのか?」。神学者、宇宙物理学者、考古学者、生物学者らが学際的に遠慮なく議論を交わし、再び科学と宗教が一つの問題となった。

 「科学的」とは、近代科学の三区分と方法論を意味する。人間の外的環境を扱う自然科学、人間そのものを対象とする人文学、人類が集合として構築したものを調べる社会科学が、それだ。たとえば心と脳の関係は、人文学と自然科学の研究方法が必要だし、脳は単体ではなくて社会的に機能する以上は、社会科学も必要だ。別の前提で動いた近代科学以前の神学や教学への反動で、19世紀は自然科学を偏重し過ぎていた。

 21世紀現在、近代科学を明確にするからこそ、近代以前の科学性や学問性もまた再評価されている。この宗教と科学、神と人間をめぐる潮流を鑑みるに「UFO手帖」は21世紀にふさわしい内容だ。問題を適切な形で切り取っているように思う。

 J.P.ホーガン「星を継ぐもの」のように、ぼくらは未だ友人と出会っていない。アニメ「ストライクウイッチーズ」が語るように、宇宙人や異次元的な謎の侵略がないがゆえに、人類同士で争い続けている。涼宮ハルヒはただの人間ではなく「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者」を探し求めた。コンタクティは旧約預言者めいているし、彼らに興味を持つ人々も少々ただ事ではない。

 そう、ただの人間などいないのだ。誰もが何かしらの超越なり超常を持っている。メイド喫茶だって、日常から5cm浮いた超越だ。UFOは地球や三次元から何マイルも浮いている。それらが好きで仕方ないぼくらも、たまに社会から浮いてしまう。それでも強く働く揚力は期待となり、期待は社会的な斥力となるかもしれない。諸力が、ぼくらを止揚する。そして、ふと見上げれば、何かが空を飛んでいる。

 「UFO手帖」創刊号、混沌とした現代にふさわしい、その科学的ミクスチュアのテクスチュアが、次なる投下への期待を掻き立てている。

 その後、近所の郵便局にて学費支払と家賃の送金設定。30万円以上消えた。今月はジリ貧である。やべえ。帰宅後、100円アルミ鍋うどんと冷凍ごはんレンチンで食べた。その後、久しぶりに東京にいる元同居人氏と話した。元気そうで何よりである。あと金正男の暗殺の話題があがっていた。なんとも言えない話である。主よ、憐れみたまえ。

 夜、楽しみにしていたブレちゃんを視聴。扶桑皇国民に生れて良かった。神に感謝。ド深夜、ネットでみたキリスト教系のテロリストのブログをみて戦慄した。この手のタイプは喜んで異教徒を殺しそうで怖い。