どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:忘れる、バイト、疲れ

3月28日 火曜日 晴れ

 朝、豆菓子とチョコを珈琲で。今日は何もない日だと安堵していたが、どうやら一日ズレていたようで、午後から仕事であった...(白目) 予定を忘れる程度には忙しいということか。最近の外食&暴食が祟り、質量バージョンUPのオッサン筐体を引きずって取材へGO。やっと心安らかにアニメを見れると思ってたのに。

 本日の仕事は、某会議に出席し、それについての報告を上げることである。金満資本主義ピッグの根城へGO。まあ内容は当たりさわりがない話ではあった。たしかにエネルギー問題をはじめ、環境や経済は全人類が共有せざるを得ない問題である。しかしながら、結局、この手の啓蒙のために、エネルギーを消費するわけだから何ともいえない。当然ながら、広く告知し啓発することが重要であり、従ってエネルギーの消費も正当化されるのだろう。でも、そこにある考え方は、まさしく効率化そのものであり、そういう姿勢とか在り様を批判するために、経済効率第一主義へのアンチを目指してるんじゃないの?と思った。謎である。

 あとは、頑張れば何とかなると思っている心性には、距離を感じざるを得なかった。たぶん、ここにいる人ら、死にたいとか死にそうとか思ったことないんだろうなぁ。人間の闇を自分のものとしては、あまり感じる機会のなかった人々ではないか。

 原子力の使い方で、福島の話も出ていたが、この問題の非科学的言説はいつもキツイなと思う。僕もよく分からないのだが、おそらく科学というのは最低限、暫定的に確定し共有可能な事柄を意味しているわけで、そのためには厳密な方法論と検証可能性、再現性が求められる。でも奇形野菜の話とかになると、それは経験則にしかならないんじゃないか。子供の甲状腺がんも増えてるのかもしれないが、因果関係、相関関係を言うのはかなり難しいのではないか。となれば、結局、イデオロギーの問題であり、信仰の表明的な事柄になる。左翼界隈の人々が、こういうことに熱心であり誠実なことも分かるが、一方で、疑似科学的な言説や信仰の表明には、違和感を覚える。難しい。

 一方でメディア業界に関わるものとして、この業界の闇もわずかながら伝えきく。たとえば大手メディアの多くは、当時、血相を変えて東京を離れる人々を撮影しつつ放映しなかった。震災関連での自殺者も多いし、救援のためにきた自衛隊員による空き巣被害、また外国人の窃盗団の問題も多かった。

 それらは「復興」という美しい物語に邪魔だったので報道されずに終わってしまった。闇は闇のまま捨て置かれ、さらに濃くなっていく。そういう現実が確かにある。大手報道各社だけが悪いわけではない。フリーランスの記者やライターなどには、そもそも科学的知識に乏しく、東電への義憤に駆られるだけのクルクルパーも多かった。

 言い換えれば、近代社会を構成する主要メディアである新聞、ラジオ、雑誌、テレビのどれもが「近代メディア」「ジャーナリズム」ということを理解していなかった。さらにそこにネットが流入したのが、2011.3.11だった。良くも悪くも考えさせられ、微妙な気持ちになって仕事を終えた。

 会場を後にして、すき屋へ。帰宅後、ワードで告知を作成するというロートルをかまし、原稿2本を書き上げて、マグヌードルを食べた。やっと明日は何もない日である。疲れた。