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どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:土曜朝、サークル日、スマホ新調

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4月29日 土曜日 晴れ

 2時頃就寝。朝、いつもの喫茶店へ。問合せがあったので、本日の会合には新規で3名来てくれるかもしれない。来てくれるならば、オーナーにも僕にも嬉しいことである。電車内で、爆弾テロに怯えながらアヤソフィアを訪れた夢を水曜朝に見たことを思い出した。ぼんやりと昨晩のことを読書会参加の仕方としての本文語りと自分語りについて、また何かを勧める際、無自覚に前提されるスペック差、他者事情について。いろいろなことが落ち着いたので、勉強のための本を読み始める。かなり良く面白いことが書いてある。じっくりと序章を読んだ。

 ヴァッティモが考えるケノーシスとは、神が人間イエスになったというキリスト教の弱さ、すなわち、第一に「キリスト教の同一性をなすものが、同一不動の絶対的なものではなく多様に変化する」弱さの様態の象徴であり、第二に「神という起源においてキリスト教そのものがその起源から漂流する」弱さの様態の象徴である。ヴァッティモは、世俗化と神の死を経験する以前の西欧近代は、そうしたケノーシスを忘却し、社会の多様性を抑圧してきたと批判する。現代の宗教哲学の一部は、こうしたラディカルな宗教批判・近代批判・西欧批判という三つの批判を内部にインストールして営まれている、と理解すべきなのである。

序章 現代において宗教哲学は可能なのか?(8頁)

 他者的だから宗教的なわけでないというのは、その通りだな。宗教哲学の2つの遠心運動、3つの批判(宗教、近代、西欧)、多なる他性、他なる多性へ。勉強になりそうで期待爆上。土曜朝である。

 いつもの喫茶店に開館直前に到着。中央に大きなテーブルを頂いた。教養としての10年代アニメについて話し、そこから社会史と思想史の違いについて話したりした。夕方4時過ぎ、一度出て、歩くついでに、やっとスマホを新調した。最初ASUSのZen fonn3 MAXを買おうかと思っていたが、同じ価格で僅かにスペックと電池もちが高いフリーテル雷神にした。ついでに、落とした鍵ホルダーも同じものを再購入。みなぎってきた。

 友人たちが喫茶店に再び入って待っていてくれたのでそこで戻った。語学をやらねばならないと思っているので、そもそもの日本語文法を基礎からやり直すために副業で家庭教師をやっている友人より中学教科書の見本を見せてもらった。基礎をインストールしなおさなくてはならない。そして、スマホのアンドロイドの更新がかなり時間かかっている。

 夜10時半過ぎに帰宅。なかなか疲れた。帰宅後、wifiを拾ったスマホはあっという間に更新を完了した。やはり個人回線だとすぐに終わるんだな。あまりにサラリと終わったので驚いた。sonyくん、ホンマに世話になったやで。ありがとうな!ということで、携帯を換装である。

死者と苦しみの宗教哲学―宗教哲学の現代的可能性 (南山大学学術叢書)

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(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

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