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にっき:台風前夜、ドルオタ、鱧しゃぶ

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10月21日 土曜日 雨

 台風が来ているらしい。予報によれば、明日夜から明後日、月曜にかけて来るらしい。宿直仕事なのだが、どうなのだろう。食材を少し買い足したほうが良かったりするのだろうか。

 11時前に起きて、本日雑用係をつとめるイベントへ。ドルオタの話を聞いたのだが、大変おもしろい時間であった。以下、メニューである。一人の視点から業界を一望できるというのは非常におもしろい話である。

  1. ローカルアイドルのざっくりした歴史
  2. 関西アイドル区分
  3. 自分がアイドルにハマった理由
  4. アイドルの稼ぎ方
  5. アイドルの黒いところ
  6. それでもアイドルを推す理由

 前々から思っているが、ドルオタの構造は、拝一神教の構造と似ている。そもそもの話をしてもしかたないのだが、岸田秀、梅原猛、養老猛司らが主張した「多神教徒は寛大、一神教徒は非寛容で危険」という図式は、あまりにズサンである。

 宗教学関連では常識ではあるが、一神教というのは、便宜上使われても、より正確にいうと「拝一神教」という話になる。拝一神教とは、多くの神々の中から一つを選ぶ形態を言う。たとえば日本の神道が八百万だといっても、氏神・氏子以外に対しては排他的であるとかことはままある。つまり、多神教や一神教という雑な枠組みではなく、人間が神仏超越などを信じる際の構造が「拝一神教」という形をとるのである。

 そもそも「一神教」という語の初出は、17世紀前半Henry Moreの文献であり、概念としては300年も前のもので、とても現代の学術的な精密さに耐えられるものではない。「一神教vs多神教」という二分法的図式を使う時点で、あまりに雑でどうにもならないのである。なので「一神教」という語を使って宗教を語る人は、少し注意したほうがよい。そいつは何も分かっていない、適当なホラ吹きの可能性がある。

 話が逸れたが、この拝一神教という形は、アイドルでも似ていると思う。そして、アイドルといえば、日本語に直すと偶像である。では偶像とは何か、偶像礼拝とは何なのか。聖書でいえば、モーセの十戒あたりに書いてある。余談ながら、ルーテル・カトリックとそれ以外では十戒の数え方が違う。いわゆる第七全地公会議問題である。

 モーセの十戒は、前半4つが神との関係であり憲法に相当し、後半6つが人間との関係で民法、刑法などに相当する。いわゆる偶像礼拝を禁止したのは、第二戒である。

Ex20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。

 つまり神を形にしてはならない。人間が持ち運べる、扱えるモバイルなものに落としてはならない。神は、人間のアクセサリーではない、という話である。さらに、ここから新約聖書では、全てのむさぼり、貪欲を偶像礼拝としている。つまり、偶像礼拝(idol worship)とは、神以外のものを神として貪欲に求めることである。神を自分の願う形に変えて、それを貪ることを偶像礼拝というのである。そうなると、自分の願う形を見出して、それを貪るというのは、ドルオタには似ているかもしれない。

 では拝一神教の信仰とドルオタの推しへの献身はどうだろうか。P.ティリッヒは「信仰の本質と動態」で、信仰とは「究極的に関わっている状態である」とした。それは無限の情熱の活動であり、人間の日常を超えて、つまり日常をまとめて、一つの対象へと導く内容である。ティリッヒは、その信仰対象は、要求、脅威、約束を信者に与えるとしている。このあたりは、アイドルとドルオタについて言えると思うがはたして。

 とまあ、そんな話を考えながら、楽しくドルオタの世界について学んだ。新しい知見を得ることができて本当に楽しい時間だった。

 会後、二次会として鱧しゃぶを食べにいった。雨の中、タクシーが捕まらず困ったが、大変美味しく楽しい時間を過ごせた。総じて希有な一日であり、楽しい時間だった。が、予定していた原稿が終わっていないので、今から書かねばならない。明日は、日曜である。蛇足ながら地下アイドルとしては、下のお二人を地味に応援している。課金もできなければ何もできないが、せめて視聴する程度である。

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