どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:うた、仮名性、サークル参加

11月7日 火曜日 晴れ

 烏啼きて 木に高く 人は畑に 麦を踏む

 げに小春日の のどけしや かへり咲の 花も見ゆ

  昼過ぎに起きて研究室へ行くまで、この手の童謡というか唱歌というのは、どうしてノスタルジーを発揮するのかを考えた。上掲は尋常小学校唱歌「冬景色」二番である。ふと思い出してみたが、三行目後半は一番と混同し、四行目は記憶なし。「げに小春日の声はして」と意味不明な形で覚えていた。さらにタイトルは「ふるさと」と思ったが「故郷」は「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」の歌い出しである。しかもコブナでなく子熊で覚えていた。なぜ小熊を釣るのだろうと思っていたが、コブナだったか…(驚愕

 カラスが木にいる、フナを釣るくらいはしたことあるが「畑で麦を踏んだ」記憶も踏む人も見たこともないし「兎を山で追った」こともない。小学校で飼育されているウサギを触ったことがあるだけだ。

 旋律と歌詞の素朴さによる訴求力が、原風景的に全日本人にインプリントされているのだろうか。京都の郷愁性に通底する何かは音楽によるイメージか。おそらく制服を着せられ机に座り教室にいる記憶と、楽曲のもつイメージの郷愁性が重複する点に「冬景色」「故郷」の力がある。加えて、それらと原風景としての京都という象徴をつなぐものは何か。修学旅行?さらに、そこに上書きされるアニメや小説家たちの描く町並みと歴史、その半虚構性の連続は繋がるか。なんとなくそんなことを考えた。

「故郷」

作詞/高野辰之 作曲/岡野貞一

兎追いし かの山  小鮒釣りし かの川
夢は今もめぐりて  忘れがたき ふるさと

如何にいます 父母  恙無しや友垣
雨に風につけても   思い出ずる ふるさと

こころざしを 果たして  いつの日にか 帰らん
山はあおきふるさと    水は清き ふるさと

「冬景色」
さ霧消ゆる 湊江の舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして いまだ覚めず 岸の家

烏啼きて 木に高く  人は畑に 麦を踏む
げに小春日の のどけしや  かへり咲の 花も見ゆ

嵐吹きて 雲は落ち 時雨降りて 日は暮れぬ
若し灯火の 漏れ来ずば それと分かじ 野辺の里

  研究室召集日。体調もほぼ回復してきた。キルケゴール仮名性について聴講したあと、指導教授に紹介された学部生に先輩風を吹かせた。まあキャリアとしては似たようなところなので、仕方ないかもしれない。少しでも参考になってくれれば嬉しい。

 途中家に帰ろうと思っていたが6時を回ったので、今週末のイベント告知のために、学内サークルへ挨拶。結果、生まれて初めて大学のサークルに所属することとなった。三十台後半の青春といえばいいのか。ただただ若者にとって迷惑なオッサンにならぬように気をつけたいなと思うが、果たして。

 夜、満期退学の先輩が所要あり来ているので、ウチで宿泊。アニメか映画でもみて寝ればいいと思っていたが、なぜか政治の話に(白目)ぼくは、最低限、左翼・右翼の主張は理解した上でノンポリなつもりなのだが、泥酔の元極左寮生氏、数回同じ話のループを繰り返したので、ついに僕がムカついて議論に乗ってしまった。結果、朝5時半まで話した。

 若き優秀なる学生たちの自画像、政治を語るときの用語法の難しさ、酔った人のループなど、興味深い夜だった。ふと「落葉の淡色諭す政りかな」と思った。僕の政治理解は、または京都、今にたいする思いは、冒頭の有頂天家族EDの空気に流れている。

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