どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:涙雨、帰省、通夜

f:id:timelost:20171118161910j:plain

11月14日 火曜日 雨

 起きてのち、実家に置いてあるはずの喪服がないとのことで、雨の中、原付でイズミヤへ。スーツの似合う似合わないなど考えたことがないので、何でもいいから安いのを買っていこうとし、売り場の人にきいたら、着丈があまりに合っていないのでと、かなり強固に暗に断られた。まじか。いや、何でもいいからないと困るんだが…。

 迷ったが、洋服の青山へいけば何かあるだろうと再び雨の中出発。幸い、サイズも豊富で会うものがあったが予定額より高い。たしかに年齢からいえば、どこに出ても問題ないものを着ておくような頃合かもしれないが、そもそもそんな稼ぎもなく身分もない。とりあえず一番安いのをお願いした。約20分ください、と言われ、その場で裾上げしてもらい出発。

 テーラーの仕事、客の体型からの最適解としてのフォルムを導くなど勉強になる。見た目を諦めて長いので、恐ろしくストレスだったが良くして頂いたのだろう。もっとも見た目を諦めるというのは動物としての生殖への諦念なので、そこはもう致し方ない。味と同じく食えるだけから美味いものまで、着てるだけから着こなしまで幅があるのだと理解した。しかしサイズ合ってなくて(着丈が長すぎるから)ダメと買うのを止められた経験は興味深い。客に恥をかかせないことがテーラーの仕事なのだとは思ったが、あまりそういう場面にそぐわない人間なのだ。ただ祖父の名誉のために礼を欠いてはならない。

 そんなことを考えながら準備し、新幹線に乗って地元についたのが5時過ぎだった。地元の地理感覚は小学生の頃の徒歩感覚でしかない。中高生時の自転車感覚もあったはずだが、距離感がつかめないので斎場までタクシーでいったが、歩いていける距離だった。もったいない。

 斎場にはすでに親族が多数集まっており、僕が一番最後のようだった。実家は日蓮宗なので、日蓮宗形式のお通夜。家族葬と聞いていたが、結局、大勢の方に参列いただいた。仕事柄付き合いも多かったのだろう。

 父親が書いたメモリーボードの文章に景色がにじんだ。写真の中の祖父は、この数年の印象のものだった。通夜の直前に、祖父への一言を書いて送るという紙が回ってきた。僕が最後だったので迷ったが、ヘブライ語で「平安あれ」と書いた。どうか安らかに。小学生の頃に散々きいた日蓮宗のお経が記憶とともに蘇る。様々な思いが去来しつつ通夜が過ぎていく。結局、末の弟、父母が交代で泊まるということになり、僕は実家へ。実家とはいえ、最近建てたもので家として使い始めて入るのは初めてである。見慣れぬ実家。利便性はいいが、見慣れない。

 元々は二世帯住宅だった元祖父の家を見回り、僕がいた頃からあるものの写真をスマホで撮った。中身のない神棚もあったが忘れ去られた神は、祖父とともにあるのだろうか。ふとシンゴジラで被災者が体験を客体化することでどこか救われるという話に、映画など創作品、神話即ち生きた象徴の持つイメージの力を考えた。映画「おくりびと」「お葬式」による視覚化は、開かれた依代となり物語を紡ぐ力こそが巫力となるのだろう。挨拶文例まで用意されシステム化された葬祭は現代リタジーだ。人間の人間たる所以がここにあるのだ。

 深夜、こういう機会でなければ会わない幼馴染に連絡。一年以上はたったかもしれない。小学校3年来の仲間で、地元で唯一連絡をとる男である。11時前、遅いが少し会おうと連絡し、僕の運転の練習がてらドライブ。いろんなことがあるなと話して、帰宅。1時半くらいに寝た。