どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:葬儀、弔辞、いってきます

f:id:timelost:20171118171359j:plain

11月15日 水曜日 快晴

 7時半に起きるもいまいち疲れがとれていない。仕方ないのかもしれない。とりあえず再び斎場へ10時前に向かい、11時からの立飯、12時からの葬儀へ。お坊さんが祖父と個人的な関係をもっていたようで、戒名は寄贈ということになっていた。1925年生まれ、工業高校を出たのちに、海軍兵学校へ。兄は沖縄戦にて行方不明、戦死扱いとなり、祖父は戦争へ行く前に終戦を迎えた。戦後、祖母と出会い、会社を経営した。二人の息子、七人の孫に恵まれた。その初孫が僕である。享年93歳、20世紀から21世紀を駆け抜けた人生だった。

 13時半には出棺。棺の重さを感じたいと思ったが、僕が遺影を持つ係となった。火葬場へ行く途中、中高生時代によく通った旧国道沿いの晴れた景色に、さまざまな思いが去来する。地元を離れてからの年月のほうがもうすぐ長くなる。中規模の川を渡る際に、死者が鳥や蝶になってくれることを信じれるならば慰めだなぁと思った。宇宙全時空を被造物とする神は、こんなとき、どうしても距離がある。神と人間、そのあいだにある断絶が、ふと思い出される。

 焼き場にて最後の別れ。祖父の白髪をみて弟たちと僕らは禿ることはないなと笑った。海軍兵学校時代の帽子、祖母が設えたネクタイを来て、祖父は花に包まれて、棺に眠り白くなった。

 時間が来るまで会場で待ち、末の弟と話した。東大京大あたりに生徒を送る進学校の高校教師として勤める彼から聞く大学行政の余波。もちろん良いことではなく悪いことのが多い。またこういうときだから問われる生死の意味の問題。

 上の弟は地元に残り、祖父母両親とともにいる。彼はよく出来た男で、とてもではないが兄の面目などない。奥さんも地元よりもさらに奥の田舎の人で、笑顔を絶やさぬ良妻である。何の御礼もできないのだが、有難いなと思っている。珍しく兄弟3人が座っていたので、写真をとった。笑ってしまった。

 夕方、熱を帯びる白となった祖父とともに斎場へ。拾骨したのは初めてだが、あっけなく人間が骨になってしまうリアリティに、いろんなことを考える。焼き場をあとにする前に骨に触れたらそれは崩れて風になった。Dust to dust、灰は灰にということばを思い出す。あまりにもあっさりと肉体は骨となった。

 帰り道もよく晴れていた。昨日はおぼろな橙点であった太陽が、ぎらぎらと目に射している。初七日の法要のち食事をして葬儀は終わり。昨日触れたひんやりとした祖父は既に骨となり写真となった。

 祖父の遺影の前にビールが注がれて弁当が置かれている。祖父によると本当は日本酒がいいらしい。あと弁当のメニューは、僕らのほうが豪華だ。献杯のためにはビールでいこうということだ。

 宴も酣、宗教が違うが誰もしてないので線香を立てた。キリスト教やユダヤ教では、煙が天へと昇ることから祈りの象徴と考えられている。日蓮宗ではどうなのだろうか。今回、お経を読む際に、意味を知ろうと読経の間中、スマホで現代訳や日蓮宗について調べていた。また友人の坊さんに聞いてみなくてはならない。

 注がれていた祖父のグラスと僕のノンアルを合わせてキンと鳴らせた。その後、喪主である父が挨拶を叔父に頼み散会。よい斎場だったと思う。地元の駅へと向かい、接続よく新幹線へ。薄青い夕闇が残るホームで思わず泣いた。

 

 

  爺ちゃんへ。今までありがとうございました。不肖の孫ながら、可愛がってもらいました。中高生の頃からは生意気になり、反発することも多かったように思います。「明治天皇は...」というくだり、「クロンボ」ということば、ありがちな戦後の中流家庭の教育を受けた僕には理解できないことが多かったように思います。

 高校生の頃、僕がキリスト教信仰を持ったとき、爺ちゃんにとってそれはどんなことだったのでしょうか。本当に不肖の孫だなと思っています。仏壇を拝む、拝まないなどという枝葉末節、瑣末なことがらで僕は自我を主張しました。

 アメリカにいるとき「もし儂が死んでも帰ってこんでもええ」と云ってくれました。でも、いつも「どうしとるんじゃ」と僕のことを心配し、気にしていたということを周囲から聞いていました。

 この十年ほどは、ずっと寝たきりで辛そうでした。でも、いつも意識はハッキリとしていました。「生きとっても何もええことがねえ」という口癖のようにいいながら、危篤になった何度目かのときに、婆ちゃんに「長えあいだ、よう世話になったな」と笑いかけていました。

 いま爺ちゃんがいなくなって、僕が確かに、あなたの人生の一部だったことを深く覚えています。僕にとって、あなたが逝く瞬間まで、あなたは僕の人生全体の基底でした。しかし、これからは一部となっていきます。それは、爺ちゃんにとって僕が確かな人生の一部であったことを、より深く鮮明にしていくでしょう。

 爺ちゃんが僕に最後にくれたものは信仰でした。日蓮宗の寺の総代までしたあなたから、その孫がキリスト教信仰を手渡されるというのも変な話です。西日本の古く小さな町の小さく素朴な教会で信仰をもった僕は、その後、歴史的なキリスト教、学問的なキリスト教を知るようになりました。いま足りないながらも国内最高水準の知的環境に身を置く一方で、弱く小さくされた人々とともに暮らす仕事をしています。また、この星でおきたキリスト教という深層底流を地球規模で観測する地点にようやく辿りつき、キリスト教だけではなく、宗教という観点から人類史をみるようになりました。

 僕にとって、あなたはある意味で非近代的なもの、非キリスト教的なものの象徴でした。しかし、最後にあなたがその身をもって僕の背中を押して、僕を原点に戻らせてくれました。十字架の死と復活、その意味を深化するための象徴的形式としての人類に課せられた死という理解です。だから、神の御子の物語と爺ちゃんの死は、延長線上に見えています。

 以前、爺ちゃんが何度目かの危篤で意識を失った一週間の頃に夢をみて「おまえのことはおまえの神に任せる」と言いました。夢の中で、誰に会い、どんな話のケリをつけたのかは分かりません。一応、いまは学術研究に身を置いているので、分からないことは分からないとしか言えません。ただ、歴史的・学的理解だけではないところの肌触りが、平たくいえば祈りが戻ってきました。爺ちゃんと信仰の話をした頃に僕がもっていたナイーブさが戻ってきました。あの頃は、それしかありませんでしたが、いまはそれ以外の全体を確認できる程度の軌道高度には到達しました。

 だから、僕はまた僕の街へ帰ります。あなたがいてくれたから届いた地平の先へ、人類として踏み出すために。深宇宙、外宇宙探査船のように大気圏突破するための燃料タンク、引力と斥力を計算し系外へと向かう道筋、動力源や諸々を切り離し、それらを使い尽くして、僕はもうすぐ本来の目的である深外域の淵に到達しようとしています。あとは想定される未知の重力、既知の斥力に相対しながら、軌道からも系からも離れて慣性と惰性でたどりつくべき特異点へと行くでしょう。想像もしなかったけれど、僕が僕として出発するために必要だった最後のピースは、あなたの生と死でした。

 爺ちゃん、ありがとう。婆ちゃんはしばらく寂しいだろうけど、あとのことは任せて休んでください。父と子と聖霊の御名によって。

 いってきます。孫より。