どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:赤入れ、方法としてのアジア、ダブダブチ

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2月5日 月曜日 快晴

 朝六時、何かの夢をみながら、寒いがピタリと起きた。始業時間である。隣の部屋の目覚ましがいつもより長くなっている気がした。いつものように、うとうとしながら待機。いることに意味がある仕事である。 

 随分慣れたが新しく覚える仕事もある。今日も無事に終えた。地下鉄へ向かうバス停で10分待ったが、凍えるような寒さである。月曜午後は、基本何も予定がない。通常ならば翌日の研究室の準備などがあるが、学期はほぼ終わっているので、今日はメシくって休憩したら原稿を書くかと、とりあえず難波へ向かった。

 昼食は、もうすぐ移転のために閉店するという博多豚骨のラーメン。細くて濃い味わいである。その後、贔屓の喫茶店で作業するつもりでネットカフェで休憩。

 一時間ほど寝たのち、珍しく電話がなり、取ってみると友人博士である。現在、某財団の某賞のファクトチェックで働く人であり、振替休日となので会おうという話、光栄である。せっかくなので予定を変更して帰洛。途上、昨日に続けて竹内好「方法としてのアジア」を読んだ。半世紀以上前に、敗戦をなめた人の言葉である。

 竹内がいま生きていて、21世紀の超大国、ともに人口13億以上を擁する世界最大の民主主義国家・インド、世界最大の共産主義国家・中国(両者で人類の3割半超)を見たら、そして欧州と日米の凋落、ブラジルやロシア、またシンガポールやインドネシアの猛追を見たら、どのように思っただろうか。聞いてみたい問いであり、叶わぬ願いである。テロと宗教が経済構造に食い込む乱世たる今世紀初頭、先達の声に思いをひそめた。

 友人博士に会い、先の一万字原稿についてコメントを願ったところ、二十数箇所に適切な問いを投げてくれた。マクドのダブルチーズバーガーを食べながら、無自覚で無批判な前提を詰めなければ、読みにくい文章であることを露わにされて、大変勉強になった。

 七時半、バスに乗って帰宅。少し雪がちらついている。寒過ぎやろ...。家に戻り、原稿に取りかかるも疲れているので諦めた。だらだらと過ごし一日終わり。ハンバーガで超絶満腹になったが、3時頃に少し腹が減ったのでインスタントみそ汁をコップに溶かして飲んだ。

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タゴールの写真はwikiより引用

竹内好「方法としてのアジア」

 私は文学というものを広く考えております。ある国の人々のものの考え方とか感じ方、それを通してもっと深いところにある生活そのもの、それを研究対象とする。もののほうから生活を見るのではなくて、心の面から生活を眺めるのが文学だ。そういう態度で研究を続けておりました。

 中国文学に籍は置いてあるけれども、まじめに勉強しようとする気持ちはなかったのでありますが、満州まで団体旅行で行きまして、それから一人で北京にまいりました。北京に行ったとたんに、何といいますか、自分の心の中にあった憧れといいますか、潜在していた自分の夢にぶつかった気がしたのであります。

 ヨーロッパへ行く、あるいはアメリカへ行くということならば、そこにむしろ自分たちより優れた人間がいるというような感じをもつのじゃないかと思う。ところが中国には同じような人間がいるということがどうしてわからないか。

 研究を通して親しみを感じている国を自分たちの祖国が侵略するということに、非常に辛さを感じたのでありますが、まあ当時はまだそれを突き詰めて考えることができずに、いくらか交代した姿勢で、自分の狭い研究の範囲を守っているというくらいのところがせいぜいでありました。(中略)四十五年の敗戦になった時に、敗戦の体験をなめて、そこで一つの、私にとっては研究上の転機があったわけです。

 

 もし明治以後の日本の近代史が、あの大戦争の結果敗戦という苦痛をなめないで順調に進むならば、これは専門研究の枠を守っていればいいだろうけれども、あの敗戦の結果、いったい日本の近代史が、どうしてどこで間違ったか。本来あるべきでない戦争、その結果としての敗戦の苦痛というものを自分が受け止めた場合に、どこで日本の歴史が間違ったかを探ることから出発しなければ、自分たちの今生きている、存在している基礎が解明できない。これは私、あるいは私たちのグループだけでなくて、日本人、特に日本の知識人の多くが、この根本的な反省から戦後出発したわけであります。

 戦争へ行く道をどこで阻止できたかという場合に(中略)戦争批判の立場がはっきり出てきたものは、コミュニズムだったと思う。

 一九三四年に大学を出た時代の人間の一人として、私は共産主義というものにそれほど過去の美しい思い出だけをもっていないんです。戦争中にかつてのコミュニストが転向しまして、むしろ積極的に戦争に協力したという側面をわりに多く見ているわけですね。ですから戦後に共産主義の運動が高まった時もそこに入って行きませんで(中略)コミュニズムが復活することはいいことだと思っていました。但しコミュニズムが戦争を有効に阻止できたかという点には最初から疑いをもっていた。

 

 つまり自分が中国文学をやっておりまして、その中で考えてつつあったことが、敗戦を通してややはっきりしてきた(中略)後進国における近代化の過程に二つ以上の型があるのではないか。(中略)日本の近代化は一つの型であるけれども、これだけが東洋諸国の、あるいは後進国の近代化の唯一絶対の道じゃなくて、ほかに多様な可能性があり、道があるのではないか(中略)日本と中国を比較してみますと、その点、非常に質的な違いがある。

 ジョン・デューイ――(中略)日本の近代化と中国における近代化の芽生えを非常に適切に比較しておりまして(中略)このままではおそらく日本は破滅するだろうということを彼は予言しております。(中略)日本の近代文化(中略)いかにしてそれを内発的なものにできるかということを非常に漱石は探求して、結局答案が書けなかったわけですが(中略)つまり日本の近代文化がいかにつけ焼刃であるか。実際その通りになったのですね。

 中国の近代化は非常に内発的に、つまり自分自身の要求として出てき来たものであるから強固なものであるということを当時言った。

 

 今までのように日本の近代化というものをいつも西欧の先進国との比較だけで考えるのはいけないのではないか(中略)少なくとも中国とかインドというような日本と違った道を歩んだ別の型をもって来て、三本立にしなければいけないだろう(中略)単純な二つの対立でなくて、もう少し複雑なわく組みで考えるのがいいだろう(中略)今までの拙い点、つまり単純化することによって拙くなっているという点を直してゆきたい。

 現に四五年に国を誤った結果が出たけれども、そこで反省すべきを、一向反省しないで、また元通りやろうという風潮が強くなりつつあることをは拙いと思います。

 

 デューイとラッセルのことを申し上げたが、もう一つ私の考の材料になるものがあるのです。タゴールなのです。(中略)タゴールは、日本が武力だけに頼って西方の近代化を真似、それで隣国をやっつけようとしているのはいけないと日本人に忠告したのです。ところがそれに対して日本の新聞は弱国の詩人の泣き言であると批評した(中略)中国はそう受け取らないで、同じものを、ひそんでいる怒りの現われというふうに受け取っているわけです。その違いは、やはり日本と中国との根本的な違いを顕しているのではないでしょうか。

 次に、文化の内発と外発ということと、文化形成の原理としての民衆、および知識人の役割りとの関連について補足

 文化の母体がどこにあるかというと、ものをつくる生活から出て来る意外に文化の根拠はない。文化というのは物と精神と両面があるとしても、それはやっぱり人間の生産活動以外に究極の源泉はないように思う。(中略)生産にタッチしている人間以外に根元はないと思うが、それを維持するとか、それを高めるとかの役割は、専門のそれぞれの文化の担い手があります。

 

 孫文自身が書いております。ですから日本の明治の近代国家の建設というもの、これは戦争まで含めて、非常に大きな力になっているらしい。(中略)明治維新は一つの模範になって、アジアの近代化を刺戟したが、他国が明治維新の型で改革をやろうとしても、うまくいかなかった。そこで別の型を編み出さねばならなくなった。ところが日本は、自分の歩んだ道が唯一の型であると固執した。そのために今日のようなアジア的と非アジア的の内部分裂をもたらした

 日本が東洋であるというのは、私はそう思うけれども、それに対して有力な反対意見が現在あるのです。その一例を挙げますと、梅棹忠夫氏です。(中略)一千年の文化の交流があったということは言えますが(中略)ヨーロッパに対抗する意味での単一なものでアジアを考え得るかどうかということは非常に困難がありますね。だから私は、梅棹説は半分支持するのですね。

 

 日本人は中国に負けたという実感がないというのは、否定できないと思う。(中略)日本は連合国に対して無条件降伏したわけですが、その時の連合国は主として英米ソ中ですね。(中略)中国人に対する侮蔑感でしょうね。

 

 中国の場合について言うと、精神力で勝った。つまり日本にいかにして勝ち得るかという理論的な見通しがあった(中略)毛沢東「持久戦論」という本を見るとわかる。(中略)条件が不利であっても勝ち得るということが理論的に書いていある。

 サンフランシスコ平和会議の時に、平和条約に、日本が中国のどちらの政権を選ぶかは日本の選択に任されたが、日本は台湾を選んでしまった。これが今の禍根の一番の原因なのです。保留すればよかったのです。朝鮮戦争が終わって世界が平和になった時に改めて選ぶということで、講和の対象の選択を保留すればよかったが、それができなかった。

 

 最後に大問題に対してお答えしなければなりません。日本の近代化のポイントが西欧そのままの型が底からもちこまれたことにある。(中略)既成の人間の型の上に制度が外からもち込まれた。そのために日本の民主主義全体がそうだが、教育もだんだんと破綻を来している。いったい、西欧的な個人を前提にして民主主義のルールをもち込むことが得策であるかどうか、むしろ西欧的なもののあとを追わないで、もっとアジア的なものに基礎をおくべきでないか、こういう御意見であります。

 今出されている問題は大きくて、正に渡しの課題そのものなのです。ただ私は御意見とは少しちがう。人間類型としては、私は区別を認めないのです。(中略)人間としては共通であり、人間の歴史的な存在、歴史的な時代における人間存在としての共通性がある。歴史性においても人間は同質であるというふうに考えたい。(中略)同時に文化価値も同質である。(中略)自由とか平等とかいう文化価値が(中略)タゴールが言うような武力を伴って――マルキシズムから言うならば帝国主義ですが、そういう植民地侵略によって支えられていることによって、価値自体が弱くなっている(中略)

 アジアとかアフリカの植民地搾取を認めた上での平等であるならば、全人類に貫徹しない。それをどうして貫徹させるかという時に、ヨーロッパの力では如何ともし難い、限界があるということを感じているものが、アジア的なものだと思う。それを東洋の詩人は直観的に考えていると思う。タゴールにしろ魯迅にしろ。だから、それを貫徹するものこそ自分たちである。(中略)

 

 逆に西洋自身をこちらから変革する、文化的な巻き返し、あるいは価値の上の巻き返しで、東洋の力が西洋の産み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。

 その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか。それを取り出せるような観察の、あるいは認識の立場というものがどこにあるか、あるいは認識の立場というものがどこにあるか、あるいは方法がどこにあるかという問題が大切ですね。そこで、方法としてのアジアという題をつけたわけですが、私にもよくわからなくて、巧く言えないのです。もうすこし勉強してからやります――。

竹内好「方法としてのアジア」

武田清子編『思想史の方法と対象』(創文社、1961年)213-238頁