どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:定義の問題、翻訳仕事、てぃんさぐぬ花

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2月13日 火曜日 晴れ

 今日も寒い。昼前に起きたが、二度寝をかましてしまった。昨晩買った割引パンを食べて朝食として、上司より戻ってきた原稿の修正と校正。今日中に翻訳をざっと終わらせてしまいたい。

 ネットを見ながら「世間一般」や「実社会」という価値を信じる人とは、ある一定の話をすることが難しいことを実感した。「ネットの常識は、世間一般や実社会では通用しない」という主張があることは理解できる。しかし「実社会」とは、世間一般の建前としてクリーンな「社会」ではなく「本人が実感している社会」のことだろう。それは「世間一般」と互換的に使用可能な語でありながら、さらに個人の実感に寄せられたものである。加えて「実社会」は、ネット経験とは区別される上位概念なのだ。

 ということは、「実社会=本人が実感する社会のイメージ>社会≒世間一般>ネットの世界」という彼の意味世界が現れる。「国際社会」という語を除けば、社会というのは、たぶん言語や文化の下位概念で、より小さな集団を意味するようにも思うが、実社会という主語で自分を表明するのは、何かすごくおもしろい。

 つまり自分は「世間一般に沿った社会人であり実社会を経験している」という意の主張は、実際のところ「私はこう考える」という表明でしかない上に、その「私」は、ネットが網羅する膨大な情報、地球上に存在する数多の文化・言語の社会よりも上位の概念として成立している。要するに複次的なメタ認知の問題なのだが、興味深い自己理解だと思った。

 昼はレトルトカレーを食べて、ブログを更新。中古で買ったスタートレックの小説が届いた。あと2冊は後日かな。粗訳の仕事をだらだらとやるも、思ったより大変である。キレイでまともな英語なので、その文体を日本語に直すのが難しい。夜中までやったが疲れたのでやめた。

 夜、土着の音楽ということで琉球讃美歌について考える。入手できない本も多いし音源も手に入らない。難しい問題である。琉球讃美歌といえば、以前沖縄の教会で聞いた音が思い出される。題名を知りたくて検索したが歌詞を聞きとれないので分からず、適当にそれらしい音を流していたら見つけた。どうやら「てぃんさぐぬ花」という歌の歌詞を変えたものらしい。なるほど。単なる思いつきであるが思想が土着化する際に、音楽を伴うとそれは身体化されるのではないかと思った。

 当時の日記にはこうある。

 『見るからに沖縄のおじさんめく人が前に立ち、三線を弾いた。バラけた手拍子が加わり、理解できない言葉で神への祈りが歌われる。欧米の歴史を汲む礼拝形式の中に、突如として現れた異空間である。しかし、これが、この人々の地の姿なのだ。そして、その本来の姿から地響きのように湧き上がってくる神へのことば、祈り、歌。久しぶりに鳥肌が立った。』

 あと記憶違いでなければ、この日、この教会にぼくは四色ボールペンを忘れてきてしまったはずである。ところで夕食はスーパーで寿司を買ってたらふく食べた。うまかった。

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