どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:欧州のかたち、kawaii?、電気夢

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3月9日 金曜日 曇り

 だらだらと6時半頃まで起きていたせいで、一時半起床。やばい。雑務を片付けて、本日は喫茶店にて作業のつもりなので、4時半頃に出かけた。出発前に森有正の引用を探したが見当たらない。記憶の中で捏造したのかもしれない。以下、友人より贈られた本の解説が秀逸である。なるほどと思った。

 クシシトフ・ポミアン著/松村剛訳増補『ヨーロッパとは何か 分裂と統合の1500年』(平凡社、2002)361頁。
西谷修の解説より冒頭抜粋:
「ヨーロッパ」とは一地域の名であるというより、時と場所を超えて召喚されたひとつの希求だった。神話に語られたフェニキアの王女に因むこの名前は、ギリシア世界で「闇のアジア」に対する「文明のヘラス」を指す呼称として用いられたが、ギリシアの没落と共に忘却の淵に沈んでいた。それが千年の時を経て、エーゲ海を遠く離れたアルプスの北側で、ギリシアとはゆかりのないゲルマン系の人びとによって、ある祈念とともに呼び覚まされたものである。その祈念とは、東のビザンツ帝国への対抗と、西のイスラム勢力の圧力によって枠組みを決められた、ラテン=カトリック圏のありうべき結束だった。そのときには「ヨーロッパ」という地域はまだ存在しなかったが、やがて共通の文化や制度によって結ばれるひとつの地域が「キリスト教圏」として形成され、それが十字軍の遠征による「東方」とギリシアの「再発見」を通じて「脱宗教化」し、近代のとば口でわれわれの知るような「ヨーロッパ」となったのである。けれどもその「ヨーロッパ」も、ある統一的実体として存在したわけではない。

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 しかし「ヨーロッパ」というものが、まさしくラテン語圏の「われわれ」の言い換えに過ぎないのであるならば、それは「日本の四季」と何ら差がないし、もっといえば大東亜共栄圏とか八紘一宇とも大差はない思想のかたちである。つくづく人は自分がつくった現実を生きるのだと痛感する事例である。まさに記号の帝国。

 知人の誕生日ということで本を一冊ずつ贈呈。喜んで読んでもらえるなら、ぼくも本の著者も嬉しいものである。鶏のトマト煮込みを食べたのだが、かなり美味しくて驚いた。

 その後、フランス人の知人が来たので、同席し、日本文化としてのアイドル産業/地下アイドルは、フランスでは成立しないだろうという話を聞いた。理由としては、「可愛い」と「セクシーさ」を同居させて魅せる/観る文化がないということで興味深い。その意味で、いわゆるbaby mettalは難しいらしい。いわゆるフランスはプロはプロにという文化であると思うが、返して我々の文化の担い手を10代前半の小娘とした電通や博報堂など愚かな会社の功罪を含む、この国の問題でもあるかもしれない。

 夜、Amazonでディック原作?らしい番組を視聴。よく出来ている。

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