どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

うな丼、仕事日、沖縄断想

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7月22日 日曜日 快晴

 本日仕事日であるが、寝不足のまま出発。教会に行けないので、代わりに友人が書いた信仰の手記を読んだ。非常に良い内容だし、感銘を受けた。

 仕事前に、安い鰻丼で昼食。きっと、これが人生最後の鰻丼となるだろう。遠からず、日本の鰻丼は絶滅するのだ。何とも言えない気持ちが、甘辛いタレとふわっとした身に崩れて味わいとなった。

 15時半、職場へ。淡々と仕事をこなし、22時半には落ち着いたので「断片的なものの社会学」からの断想で、沖縄と自分の関わりについて考えた。

 ぼくにとって沖縄の入口は、きたがわ翔「B.B.フィッシュ」と池澤夏樹「星が透けてみえる大きなからだ」だった。しばらくのブランク、渡米帰国のちに、仲村清司作品に導かれ、再び沖縄と目が合い、そこに小原猛作品が加わった。奇しくも沖縄と大阪、京都をつなぐ作家たちにいざなわれ、岸政彦を知った。

 遡れば、伊江島で米軍と戦闘中に負傷して筏で川を下って避難し行方不明・戦死となった祖父の兄、そして昨年11月に亡くなった祖父の沖縄へのパスポートを見た記憶が、ぼくと沖縄の始まりかもしれない。好んで読んできた、沖縄と、あの島について語る人々のことばに、なぜぼくは惹かれてやまないのか。

 当初は琉球大学に入って海洋考古学者になり南の楽園で潜って楽しく暮したい、という少年の夢と憧れだった。しかし四半世紀を経て、既に潜ってきた先達のことばが沖縄という島と海の形を、ぼくに見せてくれている。それは太平洋弧という巨大な広がりの中で浮かぶ近代仕草ぶる島嶼国家のかたちでもある。

 しかしその仕草には、ほころびがあり、それがどうしようもなく可笑しく哀しく愛おしい。沖縄、大阪、京都にはそういう可怪しさがハミ出して現れてしまう。彼らのことばは、その濃密な南国の夏煙る匂いを運ぶ。波濤のまにまに寄せては返し、遠からずその薫りが消えゆくことも、それは伝えている。

 三島由紀夫が夕暮れに重ねた終末への思いのような、そんなことばたちが、ぼくと沖縄を不思議につないでいる。沖縄の友人たちを思い出しながら、改めて沖縄というものを遠目に考えている。

 二時前には寝た。

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