どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

中東より友人来たる、思いつき、深夜中華

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9月12日 水曜日 曇り

 11時過ぎに起床。昨日の昼は冷凍うどんに冷凍ねぎをふり、一枚50円の乾燥エビ天を乗せて食べたが、本日は外出日である。夜に、イスラエルからの友人が来るのである。

 ニュースで学者たちが、池上なんちゃらの不正と欺瞞について叩いている。まあ気持ちはわかる。とはいえ、とにかく、テレビを見てもしかたないという気持ちである。そもそもニュースキャスター風情に知性などない。朗読のための役者に過ぎない。

 従って、ジャーナリストでもない。ぼくも仕事の3分の一くらいが売文屋(記者)であるが、我が身を顧みても基本的に恥知らずで常識ない非道い人は多い。とくにNHK関連は経歴詐称するような者までいる始末なので、とにかく信用できない。信頼できるジャーナリストというのは、自分たちを知的だと勘違いしていないことが条件となる。マスコミは、おそらく約1%の、心ある誠実な人々のムリによって成立している。末法の世だ。

 行きしな、読書会用の本を精読。W.James、聖徳について。なるほど。喫茶店へ向かい、続きを読もうと思っていたら、すでに作家氏がいたので、合流。楽しく話した。

 知人の顔をみるために二人で一度場所を変えたのちにイスラエルからの友人を批評家氏、目上の准教授氏と迎えた。

 昨晩思いついた内容で、日本語キリスト教が持っていた批評精神はどこへ消えたのか、という問いがある。内村鑑三、南原繁あたりまでは批評精神がキリスト教内部にもあったのだが、南原前後において分離したのではないか。つまり批評精神は丸山眞男に継承され、その他の宗教的素養を東大系の無教会キリスト教会が継承したのでは?という読みである。友人たちに聞いてみたが、あまり賛意を得ることはできなかった。

 たしかに批評・文芸の源泉は、たぶん小林秀雄あたりではと思うし、丸山眞男を批評家として捉えること自体の難しさもあり、さらに、果たして現代の日本語キリスト教に批評精神がないのか、といえば、そうでもないのでは問題もある。

 少し遠回りになりつつ、作家氏、批評家氏とイスラエルの友人をホテルまで送り、帰宅。批評家氏、脳の活動が活発すぎて塩分不足で気分が悪いとのこと。塩キャラメル味クルミ、おにぎりを食べると落ち着いたらしい。

 少し話したいのもあり、深夜の中華食堂にて、つまんだ。満腹になりつつ、今後について考えた。売文屋には売文屋の生き残り方があろうものである。

 深夜の中華厨房でキレる中国人の会話が店内に響く。なんとなく、ぼくらにふさわしいと思った。未来をつくることばを紡ぐというのは難しい。もはや滅びが確定路線の国で、ことばにどれほど意味があるのか、と思いもするが、内村たちでさえ、社会の崩壊を感じていた。つまり、いつの時代もそういう感性が存在しているとも言えよう。3時半には寝た。