10月23日 火曜日 くもり
早く寝過ぎたせいで、一度12時半頃に起きた気もするが、結局4時半に起きた。その後、6時まで寝ようと横になり、何度寝を繰り返して、10時半前まで寝た。実に12時間近く横になっていた。おかげでスッキリしている。
パンを食べて珈琲を飲む。冷たい珈琲もそろそろ終わりか。ブログを更新し、午後の演習に向かわねばならない。13時前、身支度を終えたので、古本屋へいったあとに学内へいこうと思った。
が、結局、準備していたら時間になり、クラスへ。キルケゴールとティリッヒについて学ぶ。
キルケゴール「旅行日誌ギィライエ1835年8月1日」
私にもともと欠けているのは、私が何をなすべきかについて、私自身ではっきりと決めることである…使命を理解すること、神が、私のなすべき何を欲しているのかを見きわめること…そのために生き、そして死ぬことも厭わないような理念を見いだすことである。
パウル・ティリッヒ
諸学の体系1923「無制約的なものの概念は形而上学の中心にある。形而上学は無制約的なものを捉えようとする意志である」宗教哲学1925「無制約的なものの概念は宗教的行為において以外に与えられない。形而上学は、そこにおいて無制約的なものが理論的-合理的な象徴によって捉えられる宗教的行為である」
「啓示は無制約的なものの制約されたものへの突破である。啓示は制約された諸形式の実現や破壊ではなく、揺り動かしと方向転換である。」「啓示は無制約的なものの制約されたものへの突破である。啓示は制約された諸形式の実現や破壊ではなく、揺り動かしと方向転換である」「単に客観においてのみ生じるのでも、単に主観においてのみ生じるのでもないし、両者において連続的に生じるのでもない…それは両者の宗教的相関関係において生じる
ツァールント『20世紀のプロテスタント神学(上)』新教出版社、5-6頁
「もはや神学は、神について従来と同じように語り続けることはできなかった。神学は、神についてのその言説が、責任のある信頼に値する言説であり続けようと思うならば、また再びそのようなものにしようと思うならば、それを別の新しい仕方で行うことを試みなければならなかった。神について語ることがそもそも神学者に許されているか、またどこまで許されているかが、問題であった。そしてカール・バルトが彼の道の初めにおいて直面していると思ったのは、まさにそのような問題であった」
啓示とその語りというのが、ぼくの問題関心でもあるので、大変勉強になった。しかし脳が蒸発して疲れたので、同僚氏を誘い、メリケンダイナーにて肉と脂と塩を接種した。
夜、スタートレックV「遥かなるヴォーグの記憶」をみて、短編SFヨナを視聴。キリストが自身の例話として言及した、聖書に出てくる預言者ヨナ。大魚に人生を呑まれた男の顛末を描く、DUST(2017.3)14分作品である。面白かった。だらだらと起きてしまい5時半には寝た。
シーズン5-7 第101話
邦題:遥かなるボーグの記憶
原題:Infinite Regress
あらすじ……セブン・オブ・ナインが多重な人格と言葉を持つようになった。その原因は活動中のボーグ・リンク装置に影響を受けているためだと判明する。そのリンク装置は異星人のウィルスに感染していたのだった。