4月5日 日曜日 雨
朝9時過ぎ、河原町のカトリック教会へ.。チベット仏教の研究者の友人が宗教学的関心から復活祭なので出席してみたいとのこと。僕の提案で、今日と来週にカトリックと正教会へ行くことにした。よく知られた話ではあるが、カトリックと正教では暦が違うので、一週間ほどズレている。そんな歴史が、僕の友人関係に益するとは思わなかった。面白いものである。
雨の中、バスで河原町へ。日曜日だからか観光客も多い。外国人も多いが、カッパを着たまま入ってきた奴らがいて辟易した。こっちの服が濡れるだろ…...常識的に考えろYO。
嫌な思いをしつつも間に合い到着。前に見た聖公会との違いなどについて解説。礼拝開始30分前だが、聖歌隊の合唱クオリティがプロってる。司教座聖堂だからだろうか。興味深い。ヴェールを被った女性も多く、近代的宗教の原型となったプロテスタントにはない古い習慣が残っていることも興味深い。
復活祭、つまりイースターではあるが別段ミサの形式が変わるわけではない。正教会の奉神礼であれば、復活大祭は変わるので、来週に期待でもある。ただイースターのときに流れる音として、cantate domino とか「いざ人よほめまつれ」とか、そういう音が良かった。上掲リンクは流れていたのとは違うけど、いい音。
その後、友人と食べ放題のイタリアンへ。食べ放題とか久しぶりだ。小エビを使ったソースが中々良かったし、パスタの味も美味しい。食後、彼の案内で京都の繁華街を案内してもらった。三条四条あたりというのは、京都の中心であるが、正直、電車に乗る以外、または誰かを車で下す以外では、ここまで来ない。なので良い観光である。
最初に行ったのは浄土宗のお寺だそうだが、落語の発祥地なんだとか。畳張りで日中は誰に対しても開かれている。観光客か地元の人かは分からないが、手を合わせて静かに出ていく人、神社と勘違いしている子供たちなど、様々な人たちが来ている。僕は、本尊の前あたりに座り、眺めながら本尊の意匠に込められた象徴の意味について聞いた。興味深い。また、部外者である僕から見えている大乗仏教の構造理解をキリスト教の構造と重ねて彼に話し、彼がそれに応えて約一時間、小雨ぱらつく京都のど真ん中で静かに宗教談義。楽しいものである。
余談ではあるが、あらゆる宗教施設は、厳密にいえば、宗教法人は、その非課税措置の目的として、このような公益性を担保してほしいものである。信者か否かを問わず住民に開かれた場所を持ち、誰でも気軽に入ってきて、それぞれに静かに過ごせる場所が、比較的減ったのではないだろうか。ぼんやりとそんなことを思った。あと、いつか僕も仏壇?というには巨大な本尊だが、設えをみて宗派や伝統を理解できるようになりたいと思った。
寺を出て、今度は錦市場へ。400年と書いた旗が目にとまる。なるほどバザールか。徳川より少し後、欧州では宗教改革で全土が真っ二つの頃である。週末だからだろう、非常に混雑していて、ほとんど東京の電車に乗っているような狭さだった。途中、でかい串カツを見たが、財布に金を入れ忘れていたので断念。
商店街にありながら入口が分かり難いので空いているという喫茶店へ入り、続けて友人と科研費のことなどについて話す。人文学系の研究者には厳しいご時世である。珈琲一杯260円、謎の甲冑一式が飾られている喫茶店を後にした。
郵便局で金を降ろし、帰路につく。途中、けいおんの聖地に立ち寄る。もう数年たってしまっているが、見間違えようもない。あの楽器店だ。嬉しくて中に入ってしまった。豊郷小学校に行ったのは、本当に幸いだったが、思わず立ち寄れて良かった。
基本、生きてても何もいいことなどないと思ってきたが、最近思う。気がついたらけいおんの聖地の近所に住んでいるのだ。生きててもたまには良いことあるじゃないか。また天気が良くなって温かくなったら豊郷小学校を訪ねようかと思った。
漫画を読まないという友人に、マスター・キートンを差し上げ帰宅。帰りのバスはそこまで混んでいなかった。中々疲れたが、普段、自分が見聞きする京都の範囲ではない京都を知れたのは良かった。
夜、カメラを作っている友人より連絡があり、結婚式の二次会の冒頭でギターを弾いてほしいとのこと。十年近く触っていないので、どうしようもないと思ったが、祝い事であるし、何より、このブログの写真は彼が作ったカメラで撮っている縁もある。引き受けることにして、良い演出となればと思う。ちょっと緊張するが、音楽はひたすら聞いて覚え、ひたすら練習するしかないので、ある程度までは語学と同じである。結婚式の二次会余興であるならば、ただ練習だけがモノをいうのだ。努力あるのみである。唯にゃんのようにギターは弾けないが、せめての祝意としたい。