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にっき:社会学、500円弁当、体調さらに悪化

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4月23日 木曜日 快晴 春めく

 朝、体調は悪いが、社会学の授業へ。文献学からは、おもに引用の粗さで叩かれ見下される社会学であるが、一度、概論をきちんと学ぼうと元・同居人学生氏が世話になった研究科長の授業へ。本日の主題は三つ。社会学ということばの由来、社会科学一般と社会学の違い、講義の焦点としての人間の行動。

 特に印象的な話だったのは、社会学という言葉を使い始めたオーギュスト・コントが、精神の進歩と社会の進歩は並行するとして三段階の社会を想定していた話。様々な事柄を超自然的な説明で以てよしとする神学的段階、抽象的観念によって解説する形而上学的段階、そして、事物を事物によって解明する実証的段階である。

 革命以後30年で王党派と人民派の対立により10回も政権交代を経験したフランス人コントが求めたのは、社会に秩序をもたらす科学、社会的物理学であった。王権神授説は神学的段階にあり、人民派の社会契約は形而上学的段階であって、コントの求めた現在のフランスは実証的段階であった。なるほど、学問の起源を知るというのは非常に楽しい。

 社会学と社会科学一般の違いというのは、第一に、社会学は法学、経済学などのように対象による自己規定が出来ないこと、第二は、多様な人間理解を前提することである。例えば、経済学においては、人間とはホモ・エコノミクス、自己利益を最大化する動物であるという前提を持つ。つまり、対象によって定義される学問は、人間に対して限定的観念=仮定を持っている。しかし、社会学は人間理解そのものとなっていくものである、とのこと。

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 そして、講義の焦点としての人間の行動というのは、端的にいうと、人間が社会の中で個人の固有性を越えた要因によって持つ行動の斉一性が、今後の講義において焦点となっていく、という話。

 非常に興味深い話であり、楽しい。授業後、研究科長と食事。正門前の四つ角で売る弁当屋で食べたが、なぜか一つの店だけに長蛇の列。あまりに圧倒的に並んでいるので、不思議だったが、種類が多いこと、また十分な量があることがよく売れる決め手のようである。

 午後、学費減免手続きのため、学内システムへ。相変わらずの残念仕様で無駄に時間だけ取られ、さらに徒労で終わった(白目)。帰宅後、二次会でギターを弾くので、その打合せ。

 いよいよ明日出発なのだが、持っていない服を選ぶのが嫌になり、ついでに礼服を実家に置いてきたことを思い出した。夜、咳と鼻水がひどくなった。明日行けるのか…。