どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:授業日、洗濯日和

f:id:timelost:20150526062848j:plain

5月26日 火曜日 雲一つなく晴れ

 朝8時起床。儀式的に起動手順をふみ早めに着替えた。歩いて学校まで行こうと思ったがパソコンを持っているので諦めることにした。運動するのは授業後にしよう。

 昨晩買ったカットフルーツをつまみ、紙パックアイス珈琲を水筒に入れて出発。途中、朝昼兼用で近所のすき屋で食べて学校へ。研究室で友人より預かっている新書化狙いの原稿をとりあえず印刷。が、ページ数を打っていないせいで分け分からなくなった(白目)

 整理しようとしてたら、PCの時計は10:28を示す。これはやばいと走ってエレベータにいき携帯を開いたら10:37分。え????携帯が正しくて、授業は既に始まっていた。ひどい。遅刻しないために早く来たのに何なのか。

f:id:timelost:20150526034431j:plain

 今日の授業は、東アジア(中国、朝鮮半島、台湾、日本、ベトナム)キリスト教の多様性の理論的理解の枠組みについて。約150年前、特に日中韓においては、近代化と共にプロテスタントが流入してきた。近代化とは、その絶対性が揺らぐキリスト教と確立する科学主義の流入とも言える。その近代化において、朝鮮半島はキリスト教をナショナリズムに内在化し、日本ではナショナリズムと対立化した。

 約150年前、ほぼ同様の初期設定で始まった東アジア地域のキリスト教は、韓国では大雑把にいって人口比三割を獲得し、日本では1%未満、中国では地下教会も含めて5-7%を数える。文字通り桁違いの差が出ている。

 数字上にも象徴的に表れているこの多様性をどう理解するのか。その起点モデルが、日清戦争前後の内村鑑三の義戦論から非戦論への転換であり、より抽象化していえば自己超越的ナショナリズムとしてモデル化できるという話。なるほど。

f:id:timelost:20150526034432j:plain

 昼食は朝に食べたので、無事に腹も減らず、従って、午後一三限の授業も眠くならず。古典語の授業は続けて音写システムの復習と、名詞と形容詞の話。イブン・エズラによる名詞の二区分の話から、唯名論的理解へ。二年前に、おもしろいと思ったが理解できなかったことが今は明確に見える。やっと品詞という概念が目に見えるようになってきた。

 良い意味で学ぶための刺激を得て帰宅。洗濯日和。猫が近づいてくれた。夕食は昨日かった焼鳥。fate見ながら食べる夕食後、暗くなってから運動。一時間ほど歩く。漫画を買った。夜、友人たちとスカイプで話した。