どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

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にっき:文献、翻訳宗教、コードギアス

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9月28日 月曜日 晴れ

 朝、文献学的な手順についてふと思いついた。文献学というのは、まあ色々とあるわけだが、例えば、仏教経典であるならば、どの経典のどの言葉が真正の仏陀のことばであるのか、ということを仮説を組んで検証・確定していく作業である。確定するとはいえ、学問は日進月歩であるので、つねに更新可能な「確定」である。このあたりに、歴史学であれ現実の犯罪捜査であっても、いつも事実は解釈を含むという問題がある。

 ちなみに友人より聞いたが「仏教」という普遍的概念が形成されたのは19世紀、西洋の近代的学問の成立によるのだとか。つまり、NASAが地球の衛星写真を全世界に公表するまで、誰も宇宙に浮かぶ青い地球を想像できなかったのと同じ話である。

 おそらく色々な宗教において、多様性を包括する一般的概念を得る瞬間があったのだと思うし、それらは基本的には近代的学問の成立以降になるのだろう。しかし、現時点での最大宗教キリスト教について言えば、全体性の意識が古代の段階であったのではないかと、歴史的には言えそうである。もちろん、ユダヤ教やキリスト教の中心点は聖書だし、イスラム教の中心はクルアーンであるので、そういう一般化程度かもしれないが。

 クルアーンの場合はアラビア語で書かれたものでなくては聖典足り得ないので事情が違うが、ユダヤ教やキリスト教の場合は写本作りと同時に翻訳を量産してきたし、仏教もそうだろう。結果、真正な仏陀のことば、イエスのことば、モーセのことばとは何か問題になる。

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 要するに、根源的に世界宗教のような大きな宗教とその聖典は、その発生と起源において翻訳的(理解と解釈)であるということを指摘すれば十分なわけだが、文献学という作業は、伝達分布の際の変換翻訳による齟齬の位置を確定することで、仏陀やイエスなど本人と我々の距離を明確には出来るという話だ。

 そして、文献学によって発見される齟齬を起点とした翻訳宗教の文化、つまり各国語でのその宗教の活動を含めた多面体こそ、おそらく世界宗教の輪郭である。

 という意味で文献学的手順は非常に重要な作業であるが、それらを踏まえた上で21世紀の東アジア、極東において、萌えもえキュンとか言いながら古代の聖典や詩歌を読むところに、何か意味があるのではないか、と思った。でも、たぶん大した意味はない。

 以上、木曜日より後期開始という驚愕かつ戦慄の事実を前に、何か頭が働いた。同時に、思わずコードギアス第一期を全部見たくなって、一期視聴完了。一期の終わり方は秀逸でよい。ルルでなくてもいいから、誰か僕に研究しろってギアスかけてくれねえかなぁ(白目)