どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:資料精読、焼肉、四条・河原町

10月15日 土曜日 晴れ

 夕方まで方法論のための資料精読、片付け他。夜、四条・河原町にて友人の坊さんと会った。彼の選択で焼肉へ。海老が食べたかったらしいが思い当たる店がなかったようだ。京都は海産物を食べられる町ではないように思う。鉄板焼きの店があれば、確かに海老くらい置いてそうなもんだが。沖縄だと割に海老を食べる店は多い。

 話は宗教者としての在り方的な。僕の結論は決まっていて、日本の宗教インフラは大乗仏教のお坊さんたちのやる気にかかっている。「仏教」という概念そのものが近代宗教学の成果であるということを踏まえても踏まえなくてもいいわけだが、仏教用語なしに日本を話すことは難しい。つまり、それほどに日本語と仏教を切り離すことは出来ないわけである。言語と精神の鶏卵問題はあるにせよ、少なくとも日本語話者として生まれた人は皆、環境としての外面だけではなく、デフォルトの言語設定として仏教的要素を持たざるを得ない。平たくいえば、仏教は日本において土着化している。これは神道にも同じことが言えよう。対して、他の宗教は必ず「異質なもの」として、日本人と相対する。つまり、基本的には「外から」のものとして対面せざるを得ない。

 だから、たとえばアブラハムの宗教が手渡せる可能的な機能の多くは、実は浄土系仏教なり大乗仏教が与えることが出来るのではないか、と思う。従って、僕自身はキリスト教徒だが、キリスト教が日本でこれ以上、増える必要はさして感じない。

 管見では、日本でキリスト教であれイスラム教であれ、それらを積極的に喧伝しなくてはならない理由は、たった一つだけだ。それは、キリスト教やイスラム教でなくては経験することのできない、生成することのできない「質」や「独自性」を、この土地にもたらすことだ。

 これは単純に選択肢が多いことによる文化の豊潤さや人類の可能性のためにも良いことだ。しかし、それらは明確に言語化されなくてはならない。つまり言語化できないにせよ、精緻に語りつくすことで語り得ないものを浮き彫りにして立ち上らせなくてはならない。

 宗教一般が人々に与え得る内省的・社会的機能や公共性・国際性のようなものは、大乗仏教に触れることができれば、割に手に入ろう。従って、それらはアブラハムの宗教の「質」「独自性」とは違うものだ。一神教でしか味わえない何か、互換不可能なものを表現してこそ、その宗教は、真実な意味で「宗教的なもの」として、人々に語りかけ得る。

 人格的高潔さや知性、または公共善に向かう社会的実践や影響力は、世界宗教の多くがデフォルトで十分に備えているものだ。だから、それは代替可能だ。従って、いわゆる一神教の割合を増加させるという場合、それを願うならば丁寧な言語化が必要である。そして、これを行わない専業宗教者は怠惰の誹りを免れない。なぜなら、この問いと格闘することが、21世紀現代の日本で生きた宗教の象徴であることそのものだからだ。近代というシステムと人間の現実に、自らの宗教で以て向き合うことそのものだからだ。少なくとも僕はこの問いと格闘したことのない宗教家を一切信用しない。

 なぜなら「なぜ、その宗教でなくてはならないのか?」という問いに答えていないからだ。もっと言えば、なぜキリスト教の~派の○×教団の△□教会の何某牧師なり司祭の話を聞かなくてはならないのか。なぜイスラム教スンニ派を、シーア派をこの人から聞かなくてはならないのか。なぜユダヤ教の教えを、この形式で知る必要があるのか。この根本的問いかけに自分のことばで答えることなく、啓典に書かれた正解や教団内に与えられた権威に逃げるような一神教の宗教者がいれば、そいつは偽物だ。むしろ飾らずさらりと「自分はサラリーマンであって」と言い切る多くの坊さんたちのほうが清廉潔白である。

 もちろん余計なことを考えずに単純化すれば、より深く確かに強く「生」の肯定を求めたいならばガチの一神教が必要となるし「生」の空しさ、生成消滅のリアリティを突き詰めたいならば、上座部の仏教へ行けばよい。これらの両極端まで行かないならば、心ある大乗仏教の坊さんたちとの付き合いの中で学ぶことが多いだろう。興味がない場合は、自分の趣味に埋没するか、労働・生殖に励んでいれば人生は終わる。

 さらに世界最大の一神教はキリスト教であるが、キリスト教に触れる前に、まず国内最大の拝一神教である浄土系仏教に触れてみれば、それなりの味わいがあるはずだ。よく言われるが、浄土宗と親鸞はキリスト教とルターに似ている。つまり、大乗仏教を味わってみた上で満足しない場合の選択としてアブラハム宗教があればよいと僕は考える。

 そういう意味で、キリスト教が増えることがあまり有意だとは思わない。むしろ大乗仏教のお坊さんたちが、その役割と期待を受け止めるならば、様々なところに潜んでいた期待や変化が見えてくるのではないか。

 他にも色んな話を友人としたが、まあ思い出して書けば以上のようなことを考えていた。とりあえず肉旨かった。そういえば「大乗新基督教」という刺激的な単語を使ったのは中島重だったか。彼の本も漁ると面白いのかもしれない。「大乗新基督教」とはどういう意味だったのだろうか。今風にかけば「シン・キリスト教」だろうか。

 昨晩、このあたりを通ったのは遅い時間だったが、今日は少し早いので、非常な賑わいである。肉を食べたのちも、老舗珈琲屋フワンソワにて続けて話した。阪急の改札を抜けた友人の背中に、21世紀の僧侶の自然な佇まいを思った。少し風が冷たい。原付を拾って帰宅。しかし、四条・河原町の改札から自宅までほぼ20分というのは随分近いし便利になった。新居、回線速度と布団干場がない以外は悪くない。