どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:日灼け、渡嘉敷島キャンプ、石の枕

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7月21日 金曜日 快晴

 アメリカらしい朝食をもりもりと食べて、11時に出発。途中のコンビニで一番強い日焼け止めを購入し塗りたくった。それでも、じりじりと灼かれている気がする。いまから滞在先一家と渡嘉敷島へキャンプへ行くのだ。当初「キャンプは好きか?」と聞かれて、あまり乗り気ではなかった。しかし泊めてもらう身分なれば迷わざるべし。「行くならどこでも行くよ」と返信した。座間味と聞いていたが、沖縄に到着後、なぜか渡嘉敷島に変更されていた。細君が訪れたことのない場所を選んだらしい。

 渡嘉敷島には、約20年ほど前に来たことがある。おぼろげな記憶をたどれば、確か高校の卒業式の前日か何かに、初めて来たのだった。那覇空港でターミナルを間違えて乗り遅れたことを覚えている。20年ぶりか、もうほとんど何も覚えていないなぁと車に乗った。

 泊港に到着し、駐車場所に困ったのちコインパーキングを見つけ、24時間以上の使用を電話して、高速船へと急いだ。僕以外は外国人だったので、気づいて良かった。乗り場前に見かけた弁当屋はお茶までついて400円という驚愕の安さでありつつ、沖縄らしい味だった。船内は中国人富裕層でごった返している。高速船に乗るまで思い出せなかったが、艦上からあたりを見渡して思い出した。あ、僕、この船に乗ったことある。

 定刻に出向。英国船籍の巨大客船を横目に那覇が遠ざかっていく。沖縄が島であり平坦な土地であることが分かる。スカイラインに海と空、雲が並行に揺れている。南洋特有の暑さと潮風に押されて、船が水を切って前へと進む。別の島へいく船も見えた。wifiも3Gならば途中までつながるようで、現代の利便性を思う。

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 僅か一時間余の船旅。島の輪郭を碧いグラデーションが描いている。地元の釣り人を眺めていたら着岸した。

 下船するも予定のレンタカー業者がいない。さらっと見渡して聞いてみると、予約に名前がないと言われる。怪訝な顔で困ったなと思って「あ、車だけです」というと「ああ!それだったら、あっちです!」と無事に車を拝借。8人乗りで悪くはないが、荷物の積載量は少ない。しかし大人4名、中学生1名、幼児2名の集団である。大きな車のほうがよい。

 貸出手続きを終えて出発。本当に日が熱い。借主としてサインしたのは僕だが、どうやら免許を持っていれば誰でもよいらしい。えらいゆるいなと皆に話すと、島の中だし逃げようがないからじゃね?と言われ笑ってしまった。確かに。それに島内における制限速度は集落内では20km、主要道路においても40kmである。実際問題、相当に曲がりくねっている山道なので40km出すのが精一杯である。理に叶っている。とりあえず一周しようと言われて、適当に上がっていくと、集団自決地のあたりへと辿りついた。ハブ避けの壁もあるが、穴も空いており意味があるのかないのか分からなかった。

 千羽鶴が夏日に横たわり、蝉の声がやたらと響く他、人影はない。米軍の上陸地となり、出征しなかった老人や残っていた少年たちが、妻、母、妹弟たちを手にかけての自決は300余名に及んだ。そんな光景を予想だにしなかった米軍にはトラウマとなり、ゆえに攻撃は苛烈を極めた。ここが沖縄戦の悲劇の幕開けだった。

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 ハブ注意の看板を見ながらサンダルで来たことを後悔し、恐る恐る見学して出る。結局、とりあえずのキャンプ地へいくということで、阿波連ビーチへ。途中、民家の紅型を撮影していると婦人に声をかけられた。いわゆる島のオバアである。奇しくも僕の前職の同業者であり研究分野にも関わりがあるという。驚愕しつつ、これも何の縁か導きか、進められるまま、小一時間ほど話を伺った。知られざる近代史の一側面をこんなところで垣間見ようとは。驚くばかりである。

 「写真、送りますね」と御礼を伝えて島猫さまを撮影。なかなかの美人である。友人たちより連絡があったのでキャンプ場へ。無事に場所もわかりテント設営。薄々は感じていたが、いざテントの設営をみると何をしてよいか分からなかった。

 記憶の限り、小学生の頃だと思う。何かのキャンプに行き、テントと寝袋で寝た。しかし、その日の夜には大雨が降り、テントが流されて、皆、ログハウスか何かに避難した。覚えている限りでは、テント生活はそれが最後なので、もしかすると25年くらいは前の話かもしれない。

 友人たちはさすがのアメリカ人というか、施設の老夫婦と一緒に手際よくテントを一つ、二つ、三つと立てていく。すげえなぁ。しかしながら今回の沖縄滞在の目的は、クーラーの効いた眺めの良い場所で読書し、ゆっくりすることだったはずだが、なぜかサバイバル…。

 皆が外国人なので、老夫婦には僕も海外から来たと思われていたようだが話しかけて島の景気や歴史について聞いた。渡嘉敷島も観光客が減っているらしい。設営が終わり、老夫妻がきびきびと出るとき、シダ?の葉を切って乾燥させた団扇をくれた。いま思うと、いかにもキャンプ慣れしていない本土から来た色白の太った中年男の行方を見越しておられたのだろう。有難く頂戴した。

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 設営後、ビーチへ。陽も傾きつつあり、人も減っている中、水中眼鏡で珊瑚をのぞく。夕方というのもあり、ちょっと砂の巻き上げを感じる。もちろん透明度はそれでも高い。ハタタテダイかチョウチョウオか分からないが、黒と白と黄色の魚が泳いでいる。南洋である。

 美しいには変わりないが満潮に近い時刻でもあり、岸とは少し遠い上、人を恐れぬ小魚たちに恐れをなしてしまい、僕はそそくさと上がった。たしか20年前に渡嘉敷島に来たときも思ったが、ひたすら透明な水の中に一人でいることは恐怖である。サメがいるとも思わないが、根源的な動物的恐怖を覚えるのだ。

 シャワーを浴びたのち、今度は年に一度開催している鯨海峡とかしき祭なるものがあるらしいので、それを見に車で港へと向かった。明日夜は花火も打ち上げるらしいが今晩から開催である。

 山道を超えて向かう途中、壮大な夕焼けをみて思わず車を止めて皆で外に出た。ひたすらにシャッターを切り、神の創造だと思った。20年前、僕はこの島にいた。ふいに泣きそうになったが撮影を続けた。美しい。

 その後、ナビが間違ったのか僕が間違ったのか、道に迷って、もう一つのビーチへ降りた。あぁ、たぶん、ここだ。この場所に僕は20年前にいたのだ。沈む太陽が波際の飛沫にまで彩を差し、線香花火の終わりのように水面は静かに暗くなっていく。

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 港に到着。警備員も出ており、エイサーの音が響く。暑く肌にからむ南国の夜の空気を、太鼓の音が揺らしている。せっかくなので祭記念のTシャツを一枚買い、キンキンに冷えたオリオンビールのノンアル、クリアフリーを買って飲んだ。読書はできないが、まあ悪くはないじゃないか。

 食事を祭で食えばいいんじゃないか、と思っていたが、どうやら連れ人たちはBBGの用意をしてきたとのこと。星が島と人を見降ろす頃に、やっと焼き始めた。まさしく野営めいている。しかし便利な機械があるものだ。食後、細君氏の提案により、マシュマロとチョコを焼いてクラッカーで食べるという実に米国人らしい方法で頂いた。

 その後、砂浜へ。星のあまりの美しさに息を飲み佇む。紫色の大きなヤシガニがカラカラと音を立てては浜を洗う波のリズムに揺れる。正直、気をつけなくては踏んでしまう。遠くで別のキャンパーが夜光虫を見たと言っていた。今度来るときは夜光虫をみようかな。星と虫の歌う夜の底で、ただただ空を見上げた。

 テントに戻って寝ころぶも、あまりに暑く眠れない。なれば車にもどってクーラーかと思ったが、鍵を友人に渡したままであり、すでに彼らは寝ているようである。しまった…。暑い…。高齢思想文化哲学系中年にはキャンプは無謀だったのだ。熱中症で今晩死ぬのか…。しかたないので、自販機まで歩き、さらに汗だくになり、500mlペットボトルの水を4本買った。最初はそれを枕にし、その後、足首と脇に挟んで汗がひくのをまった。ただ暑くうなされながら、一時間に一度は朦朧として起きる。昼にもらった団扇が救世主となった。有難う、老夫妻。風を起こすことでテント内の空気が動き、多少の換気となる。

 それでもあまりに暑いので、ついにパンツだけになって寝たが、外からのライトで一瞬照らされた。白い肉塊が映るのは申し訳ないし容赦なく恥ずかしくもある。体が冷えて、眠れる気がしてきたのは、隣近所のテントにいる若い男女の囁き、オッサンのいびきも消えた午前三時を回った頃だった。

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 虫の声を聞きながら、擬似的ではあるが軍隊やホームレスへの想像力を得たなと思った。どちらにも、こんなテントが設えられているわけでもないし、もっと大変なことは知っている。それでも、こういう経験をすると少しは想像の余地もできようものである。

 旧約聖書の創世記にヤコブという男がいる。今でいうズル賢い男で、結果、家族と地元から追われて旅に出た。旅の途上、星空の下、彼は石の枕でひとり眠り、神は夢の中で彼に約束を顕した。

創世記28章

12:そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。13:そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。14:あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。15:見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

16:ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。17:彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

 ヤコブはその場所を神の家、ベテルと呼んだ。独り寝転んで空を仰ぎながら夢現つ。神の約束を賜う夜。京都の部屋や行きつけの喫茶店のことが思い出されて、少し恋しくなった。波が聴こえても砂浜のほうが寝やすいだろうか…。映画「沈黙」の宣教師たちを思い出しているうちに、まどろんだ。

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