どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:暑い、多元性、リド

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8月26日 土曜日 晴れ

 午前中、バタバタと印刷。本日「宗教の多元性」について某所にて少し話す機会があり準備した。指導教官の2001年の論文を要約して話したが、内容としては、多元性と公共性というものを考える際に、欧州に一つのモデルがあるという話。雑にメモしておけば、中世千年ののち、欧州は宗教改革と戦争、宗派の複数性=多元性をいかに考えるのか、ということが大きな問題となった結果、神学から哲学(人間理性と国家)へと転換した。

 その系譜を受けついて、F.D.シュライエルマッヘルが『宗教論』において、宗教の真理性を形而上学(思惟)でも倫理(行為)でもない「直観と感情」から説明した。いわゆる「絶対依存の感情」の話である。彼によれば宗教は人間に宇宙の中で自らの位置を確認さしめるものであり、その際に経由する表象は、個人の想像力の方向性によるという。つまり、彼は、ここで宗派の多元性を超える宗教の多元性、または宗教か無宗教かをも扱える包摂性のある道を示したといえる。

 当時の欧州社会において、それらを具体化、社会化するものが、政教分離と信教/信念の自由であり、市民社会であった。当然ながら、これらは近代社会の基礎となっている。つまり「近代社会」というものは、本来的にはギリシア・ローマの千年、中世キリスト教世界の千年のあとに、キリスト教エートス(生活態度と倫理)、資本主義、市民社会を基礎として作られた欧州ローカルなものである。

 しかしながら20世紀という戦争と科学技術躍進の時代にアメリカを通して全世界に輸出された欧州の特産物は、グローバルなものと認識されてしまった。ここに人類の悲喜交々がある。そして、この近代のグローバル化なるものこそが現代の宗教的な多元社会の前提となっている。

 中世千年のあとの500年で欧州は続けて、この多元性をまとめるために「公共」というものを考えた。公共とは、誰もが自分の伝統なり信念なりから一歩踏み出した外、または半歩引いた隙間に現われる場所である。そこにとりあえず関係者が座れる場所をつくる気がある、というのが公共性の意味である。ISISの問題は、この公共への挑戦と見なされた。ISISの根本的問題は、一歩踏み出す気も半歩引く気もなかったことであり、それを許容し得ない彼らの社会的抑圧的な現実であった。

 公共というものは風が吹けば消えていくようなものであり、かつ武力で対抗された場合は、圧倒的な公共的武力にて反抗者を圧殺鎮圧するしかないのが問題である。ポストモダンを絶対化するというような意味不明な話である。たとえば、ガンダム鉄血のオルフェンズにおける軌道戦士ダインスレイヴのような話しである。

 夜、こんな話を肴に僻地にて単身赴任する友人と坊さんとリド飲食街にて飲んだ。人生はうまくいかず如何ともし難く何ともいえないことのあるものである。が、場末の立ち飲み屋の狭くて小さなテーブルに、聖なる食卓は現象し、確かに神の国はそこにあった。