皆さまへ
いつもご覧くださり有難うございます。皆さんの過ぎし一年はどんなものだったでしょうか。2017年です。皆さんが未だ見ぬ日々が良いものとなりますよう、心より祈ります。幼少時、大変よくしてもらった母方祖母の喪中のため、以下に所感のみを申し述べます。
2016年を一語にて表現することは難しいなと感じます。去年は疲れ果てた喪失感の中からの出発でしたが、振り返ってみると色々な出会いと別れがありました。祖母の訃報は大きなものでした。また最大の出来事は、京都に流れ着いて以来の基礎であったシェアハウスの解散でした。
立場は違えど、互いに得るもの大きい友となった農学部くんの旅立ちは、同時に、巡礼先の高知から最後の同居人を迎え、知己を得ることになりました。しかし、それは既に中国にて働く博士、ドイツへと留学に行く院生氏、また医学部生氏との生活の終わりへの秒読み開始でもありました。すなわち、京都に来たことの意味を根本から問う機会となったのです。
新しく始めたことといえば、全く身についていませんが古代語への造詣の深まりです。とくに死海写本を視覚的に確認したり、楔形文字・シュメール語を学ぶことは、古代人の吐息と肌触りを知り人類史の淵源に指先が届く、またとない機会でした。またオタ話雑談会を主としたサークルも始めたことで、御屋敷を中心とする大阪ポンバシ界隈との関わりが深まったこと、SFを読み始めたのも幸いなことです。そして学術NPOに参加したことも興味深い広がりを見せたことでした。
総じて言えば、今年は東京でさえ出かけることもなく、京都に足を馴染ませていく一年でした。結果的に京都に残れるだけ残ることを決めたのも2016年の大きな出来事です。
2017年を迎えた今、今週中に提出する修論に追われつつも、二十歳以降の15年間の総括と今後30年の目標が、京都に来た意味として眼前に浮かんでいます。2014年の春に沖縄で風に乗って中空に浮かびながら、見た島の全景と海の広がりが象徴していたものが、気がつくと、いま見えています。
旧約聖書 詩篇90には以下のような詩が残っています。古代人の生の自覚、問いが風のように聞こえてきます。
【抜粋】
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。
どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。
この歌に続いて、詩篇91の冒頭はこのように語るのです。
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
去年の今頃、一年後を想像できませんでした。未来はやがて過去に変わります。流動的な未来が過去となるとき、今までという過去の意味もまた固定的なものでなくなります。従って「今、ここで」という現在は、実は自由なものです。ですから、皆さまの2017年が、より自由なものとならんことを願います。 われわれの齢は七十年。健やかであっても八十年。すぐに飛び去っていく泡沫の生ですが、飛沫は波をつくるものです。
どうか、あなたが自由に歩めますように。あなたに神様の祝福がありますように。
以下、写真で2016年を振り返ってみました。ご笑覧ください。
一月
二月
三月
にっき:ガルパン4DX、スシロー、Κύριε ἐλέησον
四月
五月
六月
にっき:脱自的タブレット、ラムネわらび餅食べたい、アールグレイ