どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

にっき:冷凍寿司、チャリたぶる、サトゥルヌス祭

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12月28日 木曜日 くもり

 随分と外が寒い。朝から部屋を片付けようと思っていたが、どうにもそんな気分にならずだらだらと過ごしてしまった。ネットをみていて思ったが、ありとあらゆる属性について、自分の立場から、文字通り見ず知らずのテキスト情報でしかないアカウントに大義を掲げて、なぜテロに走るのか全く分からんことに気付いた。公的に主張するなら、議員になるとか学者になるとか、新聞に書くとか、そういうことをしなくてはあまり効果がないのではないか。公共を説得するために、公共圏で喧嘩するのが得策なのか問題である。

 人が誰かの話を聞くのに重要なのは、まず、なぜこの話を聞かなくてはならないか、という点であり、次に、なぜこの人から聞かなくてはならないのか、という点がある。つまり「主題」と「手段」の二点ををクリアできなければ、どんな言葉も説得力を持たず、印象は暴力的なものとなり、それが言語的・物理的な暴力にすり替わっていく。

 さらに言えば、どんなに深刻な問題で「主題」と「手段」が適切でも、その問題が自分と関係ない「他なる問題」である場合、それにどう関わるのかという「主体の選択」は残る。多くの社会的言説の問題は、この選択を無視してるから全体主義のように、つまり自他の区別を無視して自分を抑圧してくる他者のように受け取られてしまうのだろう。僕は、こんな理解で、多くの累積する人類の問題を見て見ぬふりをしている。

 実は、この問題と手段、それに関わる主体をつなぐところが、いわゆる経済的利益、社会性、教育などだが、最終的には個人の内的資質になる。昔はそれを「男気がある」「いき」「鯔背」と評した。英語ならば「charitable」だし、宗教用語なら「恵み」だ。これらへの傾きが主体になければ、問題と手段は浮いてしまう。

 だから、ある思想を普遍化し公共圏で取り扱いたい場合、その思想の内在する普遍性を最大化して、もっとも洗練された広いことばにする必要がある。その上で、その言葉でも全く通じない別の世界と衝突することになり、そのとき初めて「普遍性」という問題が出てくる。

 そのどうしようもない「不変の動態」がせめぎ合うところまで来て、初めて多様性だの云々という、とてつもなく面倒でやっかいなお題が意味を持つ。まあ、身近なところで記号的な匿名アカウントを叩くことでストレス発散するのは少数派の自覚には良いかもしれないが。ただ、個人的には悪手に見える。

 結局、解決策としては、問題と手段の担い手自身が「恵み」を象徴するしかない。が、基本、これも無理なので無理。街頭募金を考えれば分かる。「問題」は捏造され「手段」の担い手には悪意しかない場合があるからだ。そのとき「主体」は無視するか告発するかしかない。低コストなのは無視なので主体はそれを選び、悪貨は良貨を駆逐する。なので、社会的な解決が必要な問題は、この主体に届くことばであるためにチャリタブルであるところをポーズでも良いから見せる必要があると思うのだが、多くの場合、地獄のような問題を地獄の使いのような手段が伝達するので、何もかもが焼かれて終わるしかないような現実となる。いかんとも御しがたい。

 そんなことを考えていて、ふと、そういう意味では、元議員・井脇ノブ子氏というのは毀誉褒貶あれ、色んな意味で尊敬できる人なのではないかと思った。詳しくは何も知らない。異論は受け付けない。

 夕方、昼飯を食べておらずハラヘッタなと思って昨晩買った手巻寿司を食べようと思ったら凍っていた。冷蔵庫の設定温度を下げ過ぎたのだ。どうしようかと思っていたら、ネットで茶漬けに出来るときいたので試してみた。予想外にうまい。めんつゆ山葵を加えて熱湯をかけると海苔も溶けていい感じ。もし凍った手巻寿司にお困りなら試す価値あるかも。

 夜、片付けも終わっていないが、楽しみにしていたブレちゃん「サトゥルヌス祭」を視聴。大変素晴らしく楽しい時間だった。今年は、ブレイブに始まり、ブレイブに終わった一年だったとも言えよう。そう思いながら、年始所感を書き終えた。ありがとう、ウイッチーズ!