どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

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にっき:求める正しさ、ストフェス、全滅領域: Area X

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3月18日 日曜日 晴れ

 昨日の失敗したパスタより救出されたソーセージなどをが多少加わった朝食をたべ、掃除などをしたのち、9時前から10時5分過ぎくらいまで教会へ。職場の厚意で、その時間の外出を許可してもらった。ややこしいので勤務表は10時まで。不在にする一時間を礼拝後に戻って働くという仕組みであるが、これが存外に便利であり助かった。

 そもそも土日のシフトに入らない理由が教会の礼拝出席なのだが、かといって教会に求めているのは儀式とそれへの参列許可のみである。そこでの人間関係やら活動やら、聖書を自分で読んでビビッと来ることなど、教会が提供しようとと各種取り揃えているもので、僕が求めているものは何もない。

 加えて宗派や教派の違いというのは、ぼくのような生来の怠惰者には、ざっくりとした、実に雑な相対化でしか扱えないので、正直なんでも良いと思ってしまう。僕のような頭の出来の悪い人間には、どの教会が正統なのか否かなどを判別できない。とてもではないが、ぼく風情には「聖書を読む」ことなどできない。せいぜい設えられた日本語翻訳を準えるが山である。

 だから求めているのは儀式とそこへの参加だけである。無言で参列し、超越の王たる象徴に頭を下げて、祝福されて、応祷と朗唱以外は無言で出ていく。これだけが僕に必要なものである。

 で、今回の試みは、その意味で非常に良かった。時間の問題からいっても宿直仕事と教会を同時に消化できるので大変素晴らしい。また語られた聖書の話も、なるほどと思った。「もし一粒の麦が死ねば、多くが実る(大意)」のようなことばが聖書にある。その比喩を、人が麦を栽培する際に行う「麦踏み」に重ねて語っていた。一度、踏まれて、壊れる=死ぬことによって、麦はより強く根を張って、さらに背丈を伸ばすのだそうだ。そして麦はパンやうどんとなり人々の力となっていく。それは、より大きな世界へ出て行くための死である。たとえば、子どもが母胎から世界へ出でること、また三歳児が母から離れていくこと。それは文字通り、母を視認できる範囲の世界から、より大きな世界へと出て行くことである。

 この親子と麦の例話であるが、子どもは成長すればするほど、親子としての距離が空くことになる。麦は、やがて麦という形そのものを失って、別種の力となる。これは、たとえばD.ボンヘッファが構想した、神なき成人の世界をこそ、神が求めているという説にも似ている。漫画「め組の大吾」でいえば、消防士は消防士なき世界を求めて働くのに似ているのだ。

 子ども向けに分かりやすく語る神父、彼に聞き入る老若男女が印象的であった。復活祭も近いので、神父様は長崎の修道院へ、シスターは東京へほどなく異動との報告があり礼拝は終わった。思いがけないところにおられる神。12世紀イタリア画を眺めて仕事に戻った。

 礼拝のち、仕事へ戻る。10時10分前には戻れたので、バタバタと掃除やらを行う。バスに乗るタイミングを失って、結局11時半頃に出ることになった。本田哲郎神父にならっていえば、儀式は儀式として参加し、あとは必要な仕事を行うというのは、個人的に求めている正しさの形であると思った。

 仕事後、大阪日本橋は本日ストフェスである。年に一度のお祭りなわけであるが、とりあえず、ライター氏とともに食事とし、目当てのレイヤーさんたちを眺めて、最近、兼業で起業した友人から連絡もあり4人で話したのち帰宅。

 夜、Netflixの映画「アナイアレイション」を見た。原題はサザンリーチだろうか。不思議な映画だったが、ふと思い出したのは、昔よんだジャングルに来た探検隊か墜落した飛行機の生存者が合成獣に襲われる話である。原哲夫の絵だったと思うが思い出せない。

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