8月30日 木曜日 晴れ
11時過ぎに起床。15時半くらいに友人が三条まで出てくるというので、それまではゆっくり。16時頃、昨日提出すると言われていた原稿の進捗はいかが?と上司より連絡。友人と珈琲を飲んでいたが、いま書いてますと返信しておいた。
せっかく街中まで出たので、古本屋へ行き、物色。おもしろい本をいくつか買えた。いま買わないと入手できない。おそらく全国の古書店の床で腐っているもの以外で、確認されているのは、国会とぼくが持っているものだけ、みたいなものもあった。
帰宅して古書の来歴などをざっと見て、20時。いよいよ間に合わないので原稿作成開始。24時半に終わって提出。
夜、ふと「日本語キリスト教」と「日本の批評」の形式が似ているなと思った。西洋文明とのつきあい方を「問題」化せざるを得ないからである。つまり「遅れた近代化とキリスト教の受容」という悩み方は、原典が他にあると信じる翻訳文化圏の特徴なのだろう。仮説にしか過ぎないが、確信がある。
言いかえれば、西方ラテン教会の末裔、後継文化圏に特有の病(コンプレックス)だ。仮り組みのことばでしか主体化できなかった文化の心許なさとしての原典仕草である。
無論、印象に過ぎない。正教会圏(ローマ以外)はギリシア語から神学的思惟を汲みあげ、それを早期に翻訳正典≒原典化した。
結果、四大教区は、この手の問題に悩んでない印象がある。またキリスト教を規定する教理的枠組みとして「二性一人格」がある。しかし、そこにコプト/アルメニア/シリア/エチオピアなどの「合性論」派も含まれるべきだろう。そして彼らの「合性」こそ母語で紡いだ思惟なのだ。
平たくいえば1517年に生まれた嫡嗣ローマ・カトリック教会と鬼子プロテスタントの500年の声が過剰だった。彼らとは別の普遍性を起動し得た、現代の聖公会「教会論」や改革派「教理学」あたりからは以前より「単性≠合性」の指摘があったはずである。
結局、ユダヤ教のように「血と契約」で決まるのでなく「文化と契約」によって「信仰のかたち」が決まる、キリスト教の虚構性が、ぼくの「批評」への印象に連なっている。だからこそ、翻訳(解釈と言換)を本質的核とするキリスト教を考えるに、批評という営みは欠くべからざる、ありうべからざる隣人だなと思った。
4時半に寝た。