どっか暖かいとこで猫と静かに海みて暮らしたい

ネットの海の枯れ珊瑚がふく泡...('A`).。。... 書いてることは全部嘘です

予定変更、文献ベースで考える、30代の片付け

11月29日 木曜日 晴れ

 4時45分頃に就寝、13時前に起床。職場より日月で宿直に入れないかと打診。体力的に厳しいのではと思ったが、どうやら大変そうなのでやることに決めた。元同居人であり職場の友人とだらだらと近況を話した。結婚が決まり相手の親への挨拶などを済ませてきたらしい。

 午後、以前、友人たちとの会話の中で出てきたことについて考える。海外の危険地域で拘留された民間人、ジャーナリストの問題である。抽象化すれば、問いは「他国領土における自国民の身体的安全を保障するために、ある近代民主主義国家は介入可能か否か」となろう。

 ぼくは右翼とも左翼とも、話すのが苦手だ。政治も経済も、専門外であり、難し過ぎて分からない。加えて、多くの場合、どうにも雑な話にしかならないんじゃないか、という気がしている。

 たとえば上掲の「近代」「民主主義」「国家」という語の定義は曖昧だ。国家は、当然「先進国」と置き換えられるだろう。各人が願う、思い思いの「先進国」「近代民主主義国家」が唱えられる。

 議論を是とする分野に身を置く者として思うのは、これらのことは、何かしらの文献に基づいて厳密な話をしないと、あまり実りがないように思う。そうでない場合は、不満の吐露に終わる。無論、それでも構わない。しかし、不満の吐露は議論ではないのだと思った。

 相撲の人が日ユ同祖論絡みの発言をしていたらしく、興味深い。確かに、ヘブライ語がシェモならば「彼の名前」となろう。しかし「神の名前」と「彼の名前」を同一視はできない。一般に、神を名指すことをユダヤ人はしないし「その名」という場合は、英語でいう定冠詞付きの「ハシェム」となる。貴乃花?か誰かは知らないが、相撲の人が、どういう経路でこの話に触れたのかは大変興味深い。

 夜、先輩より送られてきた、教科書校閲の件について、確認と修正案を提出。とくにネストリウス派=景教という間違いなどを書きなおした。

 また2年ほど前に書いた内容を少しアレンジして公開。趣味の布教というのは、なかなかに興味深い。

 22時半以降、講義録音などを聞きながら本棚の移動。疲れた。とりあえず、これで友人が眠る場所を確保できた。最新のキリシタン版の研究成果、指導教官の講義を聴いた。京都学派におけるキリスト教とその継承についての話は、なるほど、と思った。

 キリスト教学は、宗教学(宗教史、聖書学)、宗教哲学、神学の三者を包括し、しかもこれら三者を反省的に関連づけるものと規定することができる。とくに、この三者の関係性の解明は、反省の学としての哲学(キリスト教学の学的基礎論とし ての宗教哲学)の課題であり、宗教哲学はキリスト教学の中で方法論的に中心的な位置を占める。キリスト教(信仰・歴史)をめぐる反省の諸レベルの区別と関係とが構築される解釈学的場こそが、キリスト教学の成立するところなのである。

 2時頃、休憩がてらネットをみていると同い年の人が放送していた。思わず同級生ですね、とコメントしたら、別の同い年の人もコメント。まさかの初見で同級生3名が集い、終わりが見えている30代の反省放送となった。30代とは何だったのか。興味深い問いである。書きながら考えるに(12/4火10:33)、ぼくの20代は神学の習得と構築であり、30代はキリスト教学の習得と構築だったかもしれない。神学の相対化、またはメタ次元の獲得としての30代。セカイ系から社会派、または宇宙論的超越系へ、とでも言おうか。5時半には寝た。